戦前、横須賀における市民野球の盛衰を、
グラウンド別に四つの時期に分けて振り返ってみよう。
▼練兵場時代 大正時代になると野球熱が芽ばえた。グラウンドは、不入斗(いりやまず)の陸軍練兵場や、根岸の海軍練兵湯。
当時の軍部は、市民のために土曜、日曜日の利用を黙認。大正八、九年ごろにはチーム数は六十に及んだ、という。
当時の強豪チームは、赤心、青葉、桜、常葉木、朋友、造船、造兵、アマチャー…。アマチャーには戦後、名解説者でもあった小西得郎さんも一時、所属していた。
▼不入斗球場時代 大正十年四月に「横須賀野球協会」が創立。昭和の初めに、陸軍の好意で不入斗練兵場の一角に、
待望の野球場が完成した。木造のスタンドもでき、県下でも数少ない堂々たるものだった。ここで、優秀な少年野球選手が育った。
また、成人では、汐留、くろがね、SE、藤床、新生、豊島、堀ノ内、鎮守府・・などの強豪チームが、プレーを競った。
野球場は十数年の運命だった。跡地には今、市立鶴久保小学校が建つ。
▼三笠球場時代 グラウンド難に苦しんだ野球協会は、市内日の出町の埋め立て地を、安田保善社から借り受けて、三笠球場を建設した。
木造のスタンドはむろん、食堂も完備。開場式には早慶新人戦が行われた、とも。三笠球場は、たこ揚げ大会、サーカス、大相撲などで、
横須賀っ子にとってなつかしい所。今そこに県横須賀合同庁舎などが建つ。
▼球場難時代 三笠球場も失った各チームは、埋め立て地や小学校の校庭を求めて、プレーを続けた。やがて敵性語の
禁止。ストライクを「よし」、ボールを「だめ」、バッターボックスを「打者箱」などといった、とか。そのうち、キャッチボールさえ、
憲兵にとがめられた、という。
戦後は、汐入小学校で野球協会が再発足。野球場も衣笠、公郷、大津、そして追浜、さらに不入斗と完備されていった。
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