石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

県立横須賀高女 @ 大津に新校舎完成
原文

横須賀市深田町、平坂上の高台にあった市立横須賀高等女学校は、昭和五年一月に県へ移管、 県立横須賀高等女学校と改称された。校舎は三浦郡浦賀町大津原、今の横須賀市大津町四丁目の現在地に完成。 規模は二階建て校舎二棟、平屋七棟、講堂などで、工事費は約二十三万円、モデルスクールの完成をみた。  同年四月、この新校舎への入学生の一人が、県立横須賀大津高校同窓会「たちばな会」会長の久保田寿枝さん。 「じつは浦賀町に女学校建設の動きが…。結果的には誘致が実現しました」と前置きして、当時の浦賀町議会議事録の内容を教えて下さった。 大正十四年(一九二五)十月三日の議事録から−。
 「町長、午前十時三十五分開会ヲ宣言シ議長席ニ着ク、五番議員(加藤小兵衛氏) ハ議長ノ許可ヲ得テ、実科高等女学 校建設ニ関スル建議ヲナス。其(ソ)ノ趣旨、左ノ如シ。  女子教育ノ必要ヲ今、申上ル迄(マデ)モ無ク現在、本町ノ女子ニ対スル中等教育機関ハ如何ナル状態ニアルカ。 男子ニ対シテハ県立横須賀中学、私立開成中学等アルモ、女子ニ対シテハ唯(タダ)横須賀高女アルノミ、シカモ同校ハ遠路ニシテ風雨雪共、通学ニ極メテ不便多キニ加フルニ同校ハ横須賀市民ノ教育機関トシテ同市ガ経営シ居ルモ、同校現在ノ状 態ハ横須賀市民ノ希望ヲモ充タスヲ得ザル状態ニアル。  従ッテ入学ニ当り、市民卜他町村入学希望者トノ取扱ヲ異ニスルハヤムヲエヌモノニシテ他町村ノ入学希望者ハ入学ニ当り非常ナル困難ヲ成シツツアリ。マタ他ノ機関ヲ求メントスルモ女子ハ男子卜異ナリ、自由ニ父兄ノ手ヲ離レ遠ク遊学 セシムルハ父兄トシテ忍ビ能ハザルモノニシテ、以上ノ理由ヨリ、現在の浦賀小学校カ、高坂小学校ノ完成ニヨッテ空(アキ)教室ヲ利用シ、実科高等女学校ノ設置ヲ希望スル所以(ユエン)ナリ」。
原本記載写真
明治41年(1908)以来、横須賀市深田町にあった市立横須賀高女は、昭和5年に県へ移管され県立横須賀高女 と改称。新校舎は現在地に建った。写真は、正門から校舎までのイチョウの並木道(昭和40年ごろ)

県立須須賀高女 A 町議会が誘致促進
原文

大正十四年(一九二五)十月三日、 浦賀町議会では「実科高等女学校ノ設置」を建議した。当時の町長は石渡秀吉、のちに県立横須賀高女を支えた地元の一人。 町長自身、議会でこう述べている。 「理事者(石渡町長)ハ大正十一年、議員ノ当時コレガ建設ヲ必要卜認メ計画シタルモ不幸、 震災ノタメ妨ゲラレ居リタルモ今、五番議員(加藤小兵衛氏)ノ建議卜一致シ居り結構ナ事卜思フ。町長ニ於(オイ)テモ異議ナキモノト思フ。 五番議員ノ建議ハ正規ノ賛成アリ、異議ナキ方ハ挙手ヲ願ヒマス」。賛成多数、議長は「五番議員ノ建議案ハ多数ヲ以(モ)ッテ可決シマシタ」。  次いで、翌十五年二月二十二日の議事録には・・。  「町長ハ午前十時三十分開会ヲ宣言シ、前回ニ引続キ第一会ヲ開ク旨ヲ告グ。五番議員『本案(予算案)ヲ見ルニ昨年、本員等ガ建議シ満場一致ヲ以ッテ通過セラレタル実科高等女学校予算ノ計上セラレザルハ、 如何ナル理由ナルヤ、説明ヲ望ム』
 助役、町経済上ノ関係マタ県会ニ於テ県立高女新設ノ建議可決ノ関係ヲ述べ、『町ニ於テ直チニ実科高女ヲ建設セントスルハ聊(イササ)カ早計ノ嫌アリ…(後略)』
 五番議員 県立高女ハ県会ニ於テハ満場一致、可決セラレタルモ、小田原トノ関係モアリ、急速ニ実現シ得ラルルヤ否、判明セザル旨ヲ述べ、 前言ヲ繰り返ス。
議長、高女、実科高女ノ性質ヲ述べ、町費多端ノ折柄、県立高女建設建議ヲ満場一致、可決セラレ居ル今日、内容貧弱ナル町立実科女学校ノ建設ヲ急グヨリ、 ムシロ県立ニ対スル促進運動ニ最大ノ努力ヲナスヲ最モ当ヲ得ルモノナル旨ヲ述ブ」。
  五番議員と議長(町長)の質疑の締めくくりは、次の通りだった。五番議員「県立高女ノ新設(誘致)ニ対シ、確信アリヤ」、議長「確定的ナラザルモ相当、自信ヲ有ス」。
原本記載写真
 三浦郡浦賀町議会は、町立実科女学校の建設よりも県立高女の新設の促進を図った。その結果、昭和4年12月 に県立横須賀高女が認可された。写真は、新校舎の正面玄関。昭和の初めとしてはモダンな学校建築だった。

県立横須賀高女 B 町が建築費を寄付
原文

大正十五年(一九二六)二月二十二日、 三浦郡浦賀町の町議会で示された「内容貧弱ナル町立実科女学校ノ建設ヲ急グヨリ、ムシロ県立ニ対スル促進運動」が三年後に功を奏した。  「神奈川県告示第十九号 三浦郡浦賀町ニ設置セル横須賀市立横須賀高等女学校ヲ昭和五年一月一日ヨリ県ニ移管シ、 神奈川県立横須賀高等女学校卜改称ノ件、昭和四年十二月二十八日認可セラレタリ 昭和五年一月十日 神奈川県知事 山県治郎」 地元の浦賀町は、手をこまねいていたわけではない。学校建築費を、次のように当時の横須賀市へ寄付した。  「議案第二十三号 神奈川県立横須賀高等女学校建築費トシテ左ノ年度ニ区分シ之(コレ)ヲ横須賀市ニ寄付スルモノトス  昭和五年二月六日 提出 浦賀町長 石渡秀吉印  記 昭和五年度 金弐万円也 昭和六年度 金壱万五千円也 昭和七年度 金七千六百五拾八円也 合計 金四寓弐千六百五拾八円也」
 当時の「学則」をひもといてみるとー。
 「第一条 本校ハ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲナスヲ以テ目的トス、 第二条 本校ニ本料及ビ補習科ヲ置ク、 第三条 修業年限ハ本科四カ年 補習科一カ年トス、 第四条 生徒定員ハ本料一千人 補習科五十人トス」
  「第七条 本校ノ休業日ハ左ノ如シ 一、祝日大祭日及ビ日曜日、一、皇后陛下御誕辰、一、学校創立記念日、一、夏季休業日(七月二十六日ヨリ九月五日ニ至ル)、 一、冬季休業日(十二月二十五日ヨリ翌年一月七日ニ至ル)、四月一日ヨリ同月七日迄、学年開始準備ノタメ授業ヲ休止ス」   「第八条 本校及ビ補習科ノ学科目ハ 修身、国語、英語、歴史、地理、数学、理科、図画、家事、裁縫、音楽、体操、教育、法制経済トス」。
希望者には週二時間、茶道や花道も。
 ちなみに、入学考査料は五十銭、入学料は一円、授業料は月額三円五十銭だった、という。
原本記載写真
昭和5年3月に制定の「学則」によると、 修業年限は本科4カ年、補習科1カ年。開校当初の授業料は月額3円50銭だった。写真は、講堂の内部、格調高い建築様式として話題になったという

県立横須賀高女 C 9年にラジオ設置
原文

昭和五年一月一日に、今の横須賀市大津町に 開設された県立横須賀高等女学校は戦後、二十三年に県立横須賀女子高等学校と改称される。その間のあゆみを「大津高校六十年史」(昭和四十一年刊)から
 昭和五年 本年度より授業料月額四円に。十月二十七日 本校新築落成祝賀講演会(講師横井忠温氏)。 二十八日 落成祝賀音楽会、家庭会主催にて落成祝賀会。十一月三日 明治節拝賀式、新築落成運動会。二十四日 電話架設(二八一番)。  六年一月三十一日 長沢恭治校長に就任。五月八日 本日より毎週金曜日、校庭にて朝礼、ラジオ体操を行う。六月二十七日 創立二十五周年記念音楽会。 十一月十四日 記念展覧会。 七年一月三十日 全校一斉のクラス会を行う。三月二日 新国家満州国誕生について校長訓話。 四月一日 同窓会経営による卒業生指導研究科(定員二十五名)を置く。九日 四年生に対し選択科目に関する話(英語三時間のうち二時間 必修、一時間随意)。九月二十四日 四年生有志課外としてタイプライター練習開始。  八年 六月十三日 金子子爵の揮毫「断機勧学」の額を講堂に掲げ、生徒に披露訓話を行う。  九年 二月二十三日 皇太子殿下御降誕奉祝式。三月六日 ラジオ機械備え付け、生徒心得印刷。五月七日 御降誕奉祝小音楽会。 この日、入江皇太后大夫の揮毫「温慈恵和」の扁額(へんがく)を披露。六月五日 東郷元師国葬のため遥拝式。 二十三日 同窓会館「有朋館」落成式。 十年 八月十七日 県下女子中等学校水泳大会、横浜元町プールにて開催、選手十一名出場。  十一年 四月一日 同窓会経営による研究科を卒業生指導家政科(定員三十名)と改称。 十月二十四日創立三十周年記念式。十二年 四月一日 中原豊蔵校長に就任、補習科を募集し、卒業生指導家政科を廃止。

原本記載写真
 昭和5年に開校、了月には課外授業でタイプライター練習、9年にはラジオを備えた 写真は、図画教室での 授業である。壁の名画や新式の机に、環境整備への意気込みがみられる。(昭和6年)

県立横須賀高女 D 17年に警備隊編制
原文

「大津高校六十年史」(昭和四十一年刊)をひもとき、 県立横須賀高女のあゆみを続けよう。
 昭和十三年 五月二十九日 第二回関東女子学生大会(庭球)上野公園、八名出場、優勝。  十四年 学校山林購入計画。四月二十九日 同窓会総会(「たちばな会」と命名)。八月十日 小田原方面耐久徒歩旅行 (午前五時出発、小田原高女、平塚高女に宿泊、十二日帰校)。  十五年一月二十九日 学校山林購入。四月一日 本校定員を千二百名に。七月二十五日 津田産業課長「生産拡充」の講演。  十六年 七月十八日 方面会を編制替え、出身学校別に。十二月八日 宣戦の大詔に関する校長訓話。  十七年 五月十八日 特設防護団、学校警備隊、夜間警備隊、方面会、学校報国隊の編制発表。  十八年一月二十五日 下村湖人氏「次郎物語」の講演。四月一日 補習料を廃し専攻科(定員四十名)を置く。 十五日 根岸練兵場で焼夷弾実験見学。 十九年 二月二十八日 女子挺身隊編制。四月十五日 軍施設に勤労動員。 十八日 報国隊壮行会(浦賀ドック、航空廠など七カ所へ)。十月三日 会田慶司校長に就任。  二十年 四月十八日 校内待避壕構築。六月三十日 学徒隊編制。七月十四日 海軍工廠特設工場として構堂使用。 十七日 新館が海軍兵舎に。八月十五日終戦。十七日 動員中の生徒が帰校。二十日 無期限休校に。十月二日 授業再開。  二十一年 六月二十七日 新制生徒心得発表。八月 校歌制定。十月二十五日創立四十周年記念式。  二十二年 四月一日 学校教育法施行に伴い、併設中学校を置く。五月一日生徒自治会を結成。 八月一日 石山広校長に就任。二十三年 四月一日 県立横須賀女子高等学校と改称。(定員八百名)
原本記載写真
 昭和11年の創立30周年が過ぎると学校内外にも戦時色が…。17年には、 特設防護団や学校警備隊が編制され、19年には、女子挺身隊として出勤した。写真は、30周年記念運動会の正門風景(昭和11年11月11日)

県立横須賀高女 E 話題になった校章
原文

さわやかな初夏の風がそよぐ、 とある昼下がり。卒業生七人にお集まり願った。次の皆さんである。
 山本弥生さん(昭和六年三月卒、横須賀市衣笠栄町)、根岸鈴子さん(七年、卒、市内馬堀町)、鈴木百合さん(十年卒、市内船越町)、 片嶋千悪さん(十一年卒、市内三春町)、松本十季子(ときこ)さん(十七年卒、市内大津町)、樽井栄子さん(二十年卒、逗子市逗子)、 高木八千代さん(二十二年卒、横須賀市津久井)。
 卒業の順に、お話をうかがった。まずは、山本さんのご登場。昭和二年に入学、二十五期生の一人だ。深田の市立″に 三年間、大津の県立″に補習科を含め二年間、在学された。
 「逗子の自宅から、横須賀線で通いました。六期生の母のころは、蒸気機関車でした、とか。県へ移管の時は、子供ながらうれしかったですね。 狭い深田から、広い大津ですから…。湘南電鉄大津駅から、広っぱの中に校舎が見えました。早々、『桜に波』の校章ができました。 八咫(やた)の鏡に『波が飛んで、チョンチョン』、今の校章です」。 一期下が根岸さん。「在学中、バスケット部で通しました」と、前おきして、こう話される。「コートは、正門を入って右手。四年間、 一度も正規の時間に帰宅したことがありませんでした。『お前が苦しい時は、相手も苦しいのだ』が口ぐせの、山之内文八先生のご指導を受けました」  「本校校舎でしたから、今と異なり、ふきそうじも勉強のうち。それに、草取りや肥かつぎも。かつぐのが上手な人は 『お前、これやれ』なんて、よくいわれたものです」。  根岸さんが四年生の時に、一年生だったのが、鈴木さん。在学中は、実家の馬堀町にある貞昌寺から通学した、という。  「私は四年間、図書部でした。小学校の時よりも、はるかに読書ができました。今のように、自由に閲覧できる開架式ではなく、 いちいちカウンター内の書庫から、借り出す方法でしたが…」。
原本記載写真
八咫(やた)の鏡に『桜に波』の校章は卒業生の中で帯留めやブローチ に仕立てて愛蔵されている。上品で重みのある校章だったという。写真は、学校に近い大津海岸での水泳訓練のひとこま(昭和8年ごろ)

県立横須賀高女 F 立派な先輩″輩出
原文

 昭和十年卒の鈴木百合さんのお話は続く。 「小学校には講堂はなく、教室の仕切りを取って、卒業式をしましたのに、女学校には講堂も体育館もありました。講堂といえば、 毎週月曜は講堂朝礼=A他の曜日は体育館朝礼≠ナした。正門を入って左手に講堂、右手に体育館が建っていました」。  昭和九年六月、講堂の南側に、二階建ての同窓会館「有朋館」が完成された。 同窓会の集会をはじめ、華道、補習科の授業に使われた。また、部活動の夏の合宿にも。「有朋館」とは、長沢恭治校長が命名された、 という。出典は「論語」の「有朋自遠方来、不亦楽乎」。  片嶋千恵子さんは、当時の在校生の一人。「私は、田戸小学校近くの自宅から通いました。電車が開通してましたが、安浦町や上町から、 みんな歩きました。学校も軌道に乗り、戦時色はまだ薄く、文化華やかな時代でした。長沢校長先生のお骨折りでしょう、立派な先生ばかりでした」  「時局の講演もありましたが、武者小路実篤とか、宮城道雄といった一流の方を招いて下さいました。 『いいものを、最高のものを』という、教育方針だったようです」。  −母校の教壇に立った卒業生は、同窓会「たちばな会」会長の久保田寿枝さんをはじめ、何人かおられる。 片や、大正六年卒の長島キワさん、県女≠フ伝統を築いた人。片や、昭和二十年卒の樽井栄子さん、伝統に新風を吹き込んだ一人。 ともに、体育科の名物先生だった。長島さんは、横須賀市浦賀町にお住まい。昭和四年から三十三年まで教諭、四十年まで講師でお務め。 「たちばな会」の前会長も。卒業生の寸評は−。  「声はすれども姿は見えず、お声はさえざえと通りました。ダンスの名教師でした」、「メーン・ボールにひもを結びながら、ほどいていくダンスは 素敵でした」、「おそうじの時は熱心でしたね。ホウキの持ち方から教わりました」、「全校生徒の氏名を覚えておられ、卒業後に何人か集まっていると全部、 氏名をおっしゃる。道路でお会いすると、深々とおじきをなさる」。
原本記載写真
 「上級生ですか。怖いというよりは『あこがれの人』でした。立派な先輩が多かったですね」という声も。 写真は、毎週月曜日に行われた”講堂朝礼”。充実したひと時である。この伝統は長く受け継がれていった

県立横須賀高女 G 文化華やかな時代
原文

母校の教壇に立った卒業生の一人、 樽井栄子さん=逗子市逗子=は、昭和二十三年から五十九年までの三十六年間お務め。太平洋戦争開戦の十六年に入学、終戦の二十年に卒業されただけに、 在学中の思い出話のほうに花が咲く。  「一年生のころは、平常の学園生活でした。夏休み中に登校、イチョウ並木に水をかけました。女子にも体力検定が行われ、 体力に応じて三段階に色別、上級バッチといっても布ですが、その保持者は羨(せん)望の的でした。やがて、花壇はイモ畑になりました」。  樽井さんが一年生の時、最上級生の一人が、松本十季子(ときこ)さん=市内大津町=。お話をうかがった。  「太平洋戦争の開戦は、四年生の時でした。あの十二月八日の朝、私は船越町の自宅を出て通学の途中、京急田浦駅で臨時ニュースを聞きました。 登校後、担任の先生から『学生の本分を尽くせ』と、いわれたのを覚えています。気を引き締めて、残り少ない日々を過ごしたものです」。  卒業生七人のしんがりは、第一回神奈川スポーツ賞を受けられた高木八千代さん=市内津久井=。十七年に入学、在学中に五年制となったために、 二十三年に卒業。四十期生の一人。お話をうかがった。  「通学方法ですか。五時起きで、四`ほど歩いて久里浜へ。あとは、木炭バスで浦賀駅に出ました。二年生の時、先生のお勧めで、陸上競技部に入部しました。 いやだ、いやだ、と思いながら、県大会で優勝。戦後は、すぐ復活、二十一年の県大会で、百bと四百bに優勝、その年の第一回国体には、 お米を持参、リュックを背負って、京都まで行きました」。  ご登場いただいた七人の卒業生。語り尽くして皆さん、さわやか。ふっと、心をよぎる、与謝野晶子の短歌。「却初(こうしょ)よりつくり営む殿堂に  われもこがねの釘一つ打つ」。さわやかさは、ひたむきに県女≠ノ「釘一つ打った」という、思いからにじみ出たもの、とみた。
原本記載写真
 学校の敷地内に建てられた同窓会館「有朋館」は、心の憩い場として長<愛用された。 夏には部活動の合宿所にもなった。写真は、昭和6年卒業の25期生、千葉幾代さん(旧姓・黒田さん)の卒業証書

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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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