石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

ロバのパン屋さん @ 『チャンバ使い行商』
原文

 「ただ今『たからや』の移動販売車が参りました。毎度ありがとうございます。皆々様、お手に取ってごらん下さい!」。 メガホンを通す元気な声、振り鳴らす鈴のチリン、チリンの音…。これは戦前、横須賀の風物詩の一つロバのパン屋さん≠セった。  店主の片腕として活躍したのは、横須賀市池上五丁目にお住まいの高橋辰男さ(七〇)。 「最初は馬車を止め、見本のパンを持って家を回りました。そのうちに、鈴の音でお客が集まってくれました」と 前おきして、こう話される。  「大正四年、私は栃木県で生まれました。昭和三、四年ごろ十四歳の時に、同郷の人が経営していた横浜・山下町の星野パン店に務めました。 店には、従業員が五十人、移動販売の馬車が十台ほどあって、横浜じゅうで販売していました。 昭和七年ごろでしたか。職長の広瀬武二さんに『横須賀に店を出すから一緒に行かないか』と誘われましてね。 今の若松町三丁目、米が浜通りの一角に構えた広瀬さんの店に来ました」  広瀬さんの出身地は、兵庫県の宝殿(ほうでん)町。町名のかしら文字を取って「たからや」とした。 再び、高橋さんのお話・・。  「開店二年後、昭和九年です。横浜のように『横須賀でも馬車で』…。 パンは売れました。一台では足りず、すぐ二台になりました。馬ですか。本当はロバではなく満州馬、 チャンバという馬でした。 巡洋艦『鈴谷』が進水したころでしたので、最初の馬を『鈴谷号』と名付けました」  「移動販売は五、六年、たしか昭和十四年ごろまででしたか。雨の日も、雪の日も。坂が多いので馬も大変、 あと押ししました。浦賀、金沢八景、三崎へも行きました。三崎へは三、四日がかりで。 馬車の荷台の屋根裏にもぐり込めるのです。馬のエサは持参、販売のパンは毎日、店から自転車で・・。 運び手にとって、長井の先の七曲がりでは、泣かされました」
原本記載写真
 「たからや」の移動販売車は“ロバのパン屋さん“と親しまれ、戦前の風物詩の−つだったという。 写真は、横須賀市緑が丘の良長院付近での販売車(昭和9年)。乗っている人が高橋辰男さん=写真提供、市内池上5ノ3に お住まい

ロバのパン屋さん A 『名物の粉つきパン』
原文

 戦前、横須賀の風物詩だったロバのパン屋さん≠フ一人、横須賀市池上五丁目の高橋辰男さん(七〇)のお話は続く。  「馬車の荷台は大工さんが造ってくれました。パンを入れる底の浅い箱が六箱ずつ三列、計十八箱も積めました。 当時のパンの値段は。小さめのアンパンが一銭、ジャムパン、クリームパン、チョコレートパン、コロッケパン、満州パン などが三銭、少し大きめのアンパンが六個で十銭、食パン半斤で五銭でした。 満州パンですか。カラシのついたシューマイが中身で、パンの上にグリーンピースが二、三個ついたものです」  「粉のついたフランスパンは、横須賀の名物でした。今でも『机の角でトン、トンと粉を払って食べるのが、こたえられ なかった』という人も…」  「すべてパンは手作りでした。夕方の五時にイーストと粉をまぜてタネを作る。発酵のあと夜十時ごろ、砂糖や卵を 入れ、一時間半はねかせてから一つ一つ量りにかけ、まるめて中身を入れます。 蒸気のホイロで、ふくらませてから焼きました。かれこれ朝の七時になります。 それから朝ぶろ。店内に一人いないので捜したら、ふろで寝ていた、ということも」  「今でも『若いころ馬車のパンを買いました』という方が寄って下さる。若い者の時代になったが、まだまだ引っ込めません」。 世の中が変わっても、変わっちゃならないものがある、といった心意気を感じた。  昭和二十五年に、高橋さんは独立、「池上たからや」を開店された。今では息子さん、光夫さん夫妻の代となり、 店の名も「モンシェリーたからや」に。  「私らの先輩は、なにも教えてくれなかった。教えてくれたのは、『この目で、耳で、盗め』ということだったでしょうか」。 パン作り五十五年の年輪″から、ピカッと光った、言葉が出た。
原本記載写真
「今でも店に『娘のころ馬車のパンを買いました』という方が寄って下さる」とのお話。 写真は、横須賀市汐入町2丁目、震災供養塔付近での移動販売車(昭和10年ごろ)=市内池上5ノ3 高橋辰男さん提供

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