石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


猿島@  『日蓮信仰伝説の地』
原文

三笠公園から1.7`の沖に浮かぶ猿島は、かつて豊島と呼ばれた。 島は南北四百五十b、東西二百b、周囲は約一・六`で、面積は約五万一千平方b。 横浜球場の四倍ほどの広さである。 豊島は十島(としま)であった、という。 近くに笠島、平島、貝島など九つの島があり、猿島を加えて十の島があった、とか。 豊島は、のちに信仰の言い伝いで「さるしま」と呼ばれ申島、去島、猿島とも書かれた。 猿島は、山王権現の使者として信仰された。 建長五年(1253)、僧日蓮が鎌倉への途中で猿島へ。 一夜を洞穴で過ごした翌朝、白猿が陸地を指さした。 前夜、不思議な夢を見たー漁民が浜辺で、日蓮を迎え出ると、サザエの角で足を傷つけた。 そこで日蓮が法華経を唱え続けると、米ケ浜のサザエは角なしのサザエとなった、といわれる。 この物語に注釈をつける向きもある。 「いや自然のなせるわざにすぎない。じつは波の荒い外海のは、鋭い角を支えに 倒れまいとするが、波おだやかな内海では角は不要だ」と。 ー弘化の年間(1844〜7)に、あわただしい幕末のきさしを見る。 初のアメリカ艦隊は浦賀へ、フランス艦隊は長崎へ、そしてデンマーク測量船は相模湾に現れた。 幕府は、防衛を急いだ。川越藩主の松平大和守は幕府に対して「観音崎より旗山、十石、猿島、咽喉(いんこう)の場処、 猶又(なおまた)相固め申したく存じ奉り候」と訴えた。 猿島は、江戸湾防備の咽喉、のどぽとげの位置に当たる。 やがて嘉永六年(1853)にぺりーが来航。 黒船は横浜・金沢沖まで入って来た。 彼らの地図には、提督の名をとり猿島を「ペリー島」と書き込んでいた。
原本記載写真
鎌倉を目指した日蓮上人が、猿島で一-夜を過ごした、 と伝えられる。 島は南北450b、東西200b、周囲は約1.6`の規模。 写真は、三笠公園から見た猿島の全景。 観光船がシーズーン中は30分ごとに走っている。

猿島A  『首都防衛の要さい』
原文

明治になると首都防衛上、東京湾口の使命は増した。 明治十七年(1884)。陸軍省は砲台建造のため、当時の公郷村から猿島を六百円で買い上げた。 島内にあった春日(かすが)明神は、よう拝所のある堀の内へ。 本殿が猿島にあるため、対岸によう拝所を設けていたのだ。 今の三春町の春日神社である。 明治十三年から三十九年までに、砲台が南から大浦、千代ケ崎、鴨居腰越、海堡(ほ)、観音崎、小原台、走水、米ケ浜、 猿島、夏島などに建設され、東京湾要塞(さい)の体制が整えられた。 猿島の場合、十七年に完成した。 ー では皆さんと猿島を訪ねてみよう。 まずは、海岸にご注目を。東側と西側は敵を寄せつけぬ高い石垣。 島の中の道は溝のように深く掘られ、曲がりくねる。 その道沿いに砲台、兵舎、弾薬庫の入り口。 レンガ造りのトンネルはわが国でニ番目に古い、といわれる。 名は”愛のトンネル”とか。その中で、とある日、アベックとすれ違った。 トンネルの名の由来をー瞬、背に感じた。 レンガ造りの力マボコ型の天井は、わが国では珍しい。 壁の入り口は立ち入り禁止だが、二階建ての指揮所や病室に通じた所も。 兵舎には窓があるので弾薬庫と区別できる。 弾薬庫といえば、天井の穴から上の砲台へ弾を上げたのだ、という。 ちなみに、レンガの積み方には、当初の数少ないフランス積みと、以後かなり見かけるイギリス積みのニつがある。 ー 猿島は、市内でも貴重なタブの木を中心とした原生林、戦後の発掘による弥生式文化を主とした考古学の宝庫、 そして、わが国近代技術史のーページを飾ったレンガなど、話題は尽きない。
原本記載写真
猿島に残るレンガ造りのトンネルは、人呼んで”愛のトンネル”とか。 その中で、とある日、アベックとすれ違った。トンネルの名の由来を一瞬、背に感じた。 写真は、旧海軍が使用した要塞(さい)跡。やはり赤レンガの地下室だ。

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