石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


浜口 英幹 @ 『冬に咸臨丸で渡米』
原文

 横須賀市上町一丁目、緑濃い中里神社近くの静かなたたずまいに佐々木芳枝さん(八五)がお住まい。  幕末、勝海舟らとともに日米修好通商条約の批准書交換のために咸臨丸で渡米した副艦長格、 浜口英幹(ひでもと)のお孫さんだ。明治三十二年(1899)生まれである。 記憶力は抜群と、お見受けした。お話をうかがう。  「祖父の英幹は、文政十二年(1829)に八丈島の樫立村で生まれました。 天保十年(1839)ごろ浦賀に来まして、浜町にあった浦賀奉行所に務める同心組頭、 今西広蔵の長男として入籍しました。  やがて安政、たしか安政二年(1855)、二十六歳の時でした。勝海舟の長崎伝習所、第一期生に選ばれ、首席で卒業。 その後、浦賀に戻って与力上席になったそうです。二年後には同心、浜口家の養子になりました」。  英幹は、咸臨丸の副艦長格、教授方運用掛として乗り込む。時に三十歳、海舟は三十八歳だった、という。 出港は、安政七年一月十九日、三十七日かかってアメリカへ渡った。「冬の太平洋が大荒れするのを、きっと日本人は知らなかったの でしょう。航海中、難儀したそうです。 帰りは五月、平隠な航海でした、とか…」と、芳枝さんは苦笑なさる。再び、お話を。  「私ばかりお話してしまって・・・。帰国後、英幹は三十三歳で、埼玉県蕨(わらび)の名主の娘、 岡田ナオ(直子)と結婚したのですよ。文久二年(1862)でした。ナオは私の租母に当たります。 当時としては珍しくクリスチャンで、横須賀で教会を開き、近所の主婦に西洋料理や、お菓子の作り方を教えたそうです。 しばらくの間は語り草になっていました」。  芳枝さんは「父の誠一が海軍軍医で転勤が多く、母が同行していましたので、私は祖母のナオに育てられた ”おばあさん子”でした」とおっしゃる。
原本記載写真
「冬の太平洋が大荒れするのを、きっと日本人は知らなかったのでしょう」とは、 咸臨丸副艦長格、浜口英幹のお孫さん佐々木芳枝さん。 写真は、「咸臨丸まつり」での芳枝さん。(昭和60年5月8日=横須賀市西浦賀町愛宕山で)

浜口 英幹 A 『心が温かな妻ナオ』
原文

咸臨丸の副艦長格、浜口英幹(ひでもと)のお孫さん、佐々木芳枝さん(八五)のお話。 横須賀市上町一丁目にお住まいである。 「英幹の妻ナオ(直子)のことを、も少し話しましょうか。ナオは徳川将軍家 一門の溝口家にご奉公していました。ナオの結婚に当たって、徳川家姫君のお輿(こし)入れの折、 お供をした魔除(よ)け人形、男女一対を下さったのです。  桐(きり)の丸彫りで、丈(たけ)が四十a、胴の幅が十二aほどの京人形でした。 男の人形は、前髪がオカッパ、ちょんまげ姿。羽織は黒繻子(しゅす)で羽織ひもは金と黒、 着物は紫ちりめんの無地、葵(あおい)の紋付でした。それに仙台平ばかま、下着は白羽二重(はぶたい)、 懐中に紙入れ、腰には大小の刀を差していました。  女の人形ですか。髪は稚児(ご)髪で金花かんざしを差し、打ち掛けは朱紋ちりめんで花龍模様、 着物は白紋ちりめんで花のししゅう、ともに裏地は紅絹でした。やはり白羽二重の下着つき、帯は黒繻子、 はこせこは錦で銀ビラビラかんざし付きでしたね。  ちなみに、人形の座ぶとんは中緋(ひ)ちりめん、回りは青地錦の鏡ぶとんでした。 ながながとお話しましたが、惜しいことに、この浜口家の家宝は、関東大震災で焼けてしまいました。 今は写真が残っていますが…」  英幹の妻ナオは、大正六年(1917)三月に亡くなった。おばあさん子″だった芳枝さんにとって、 ナオの思い出が心に焼きついている、そうな。  「黙って何もいわないが、それでいて心温かい人でした。子供のころ、冬、帰宅すると、 私の両手をもむようにして温めてくれました。どれほど世の人々をお救いしたか…。 三度も死のうとした女の人を、七十三歳で亡くなるまで、お世話したことがありました」とは、芳枝さんのお話。
原本記載写真
咸臨丸の副艦長格、浜口英幹の妻ナオ(直子)は、徳川将軍家ゆかりの魔除け人形を手に嫁入りされた。 この浜口家の家宝は、大震災で惜しくも焼失してしまった。写真は、その人形=横須賀市上町1ノ3 佐々木芳枝さん提供

浜口 英幹 B 『うぐいす坂に邸宅』
原文

 幕末、咸臨丸で渡米した副艦長格、浜口英幹(ひでもと)の邸宅は、かつての浦賀道沿い豊島村字(あざ)中里の一角、 今の横須賀市上町一丁目三十六番地辺りにあった。「花屋敷」とも呼ばれた邸宅は、今も残る坂に面していた。 この坂は、うぐいすの鳴き声が絶えなかったので「うぐいす坂」と親しまれていた。  英幹のお孫さん、佐々木芳枝さん(八五)にうかがった。「英幹は、じつは八丈島の出身でした。 でも、流人(るにん)の子孫と疑われるので黙っていたようです。 流人の子孫ではありません。英幹の母は服部クワといいました。八丈には今も『服部屋敷』が保存され、 英幹の写真が飾られてあります」。  この「服部屋敷」については「伊豆諸島東京移管百年史」(昭和五十六年刊)に「江戸時代、八丈島の宮船を預っていた 服部家の屋敷跡。現在ここで八丈島の民謡、踊り、八丈太鼓などを毎日、鑑賞できる」とある。再び、芳枝さんのお話。  「英幹の母クワの墓には、服部家の家紋『三剣一文字』が刻まれています。 クワは船奉行の娘でした。そのクワの夫、太田富右衛門の先祖は、江戸城構築で知られる太田道潅の弟、道寿なのです」  その道寿が、なぜ八丈島に−。芳枝さんは目を輝かして、こう話される。  「太田家は代々、多くの医者を出していましだ。犬公方(くぼう)といわれた五代将軍綱吉の御典医、道寿は、病床の 綱吉の気晴らしに、と芸者を箱に入れて差し向けたため、これが発覚しましてね。 寛永元年(一六二四)、八丈島に流された、といわれます」  「でも道寿は、島流しというお仕置にも屈せず、島民の医療に尽くしたので、天明三年(一七八三)に赦免、妻子を残して江戸に戻りました」
原本記載写真
浜口英幹の邸宅は「花屋敷」と呼ばれた。平坂上、小高い丘。今の横須賀市上町1丁目36番地辺りにあった。 写真は、邸宅沿いの「うぐいす坂」。木々に掩われ昼でも暗く、うぐいすの鳴き声が絶えまなかったという


浜口 英幹 C 『俳人として「号」も』
原文

横須賀市上町二丁目にお住まいの英幹(ひでもと)のお孫さん、佐々木芳枝さん(八五)のお話は続く。  「英幹の先祖、太田道寿が江戸へ戻ったのは、天明三年(一七八三)でした。 それから約二百年、七、八代あとに英幹の父、私の曽祖父ですが、太田富右衛門へつながるわけです」  なぜ英幹は、勝海舟や中島三郎助らと函館戦争に参加しなかったのか。 芳枝さんは「きっと文官だったからでしょうか」とおっしゃる。英幹は、三郎助の戦死後、遺族の面倒をみた、そうな。 芳枝さんの母ナミは、英幹四十二歳の時のふた子の一人。「ふた子は縁起が悪い」というので門前に一度、捨てられた、という。 ”拾い親”が三郎助の夫人だった、とか。 再び、お話を。
 「祖父の英幹は、号を蕉雪(しょうせつ)、俳人でもありました。 『花屋敷』と呼ばれた邸宅は文字通り、花に埋まるたたずまいでした。『花屋敷』については、改めてお話ししましょう。 英幹の句ですか。
『飛びすぎて 夢のみじかし ほととぎす』、
『雪や月 花を友なる ひとりたび』
などがあります。
 ここで、英幹をめぐる皆さんの句を紹介して下さった。
「名月や ただなつかしき 事ばかり」(ナオ)、
「雪の夜や わけて机に 気の進む」(父誠一)、
「となりにも 読み出しの声や 花の雨」(母ナミ)
 英幹夫婦の墓は、横須賀市西浦賀町五丁目の寿光院にある。 「丸に三角」の家紋がつく。わきに「海軍少技官 浜口英幹之墓 同人妻基督(キリスト)者 浜口直子之墓」、 また「明治廿七年十月十五日就眠 大正六年三月二十四日直子就眠」 とも。  芳枝さんは、英幹とともに咸臨丸に乗り込んだ鈴藤勇次郎、佐々倉桐太郎のご子孫と、今なお親ぼくを深めておられる、という。 今年も五月八日、横須賀市西浦賀町の愛宕(あたご)山で行われた 「咸臨丸まつり」に、お元気な姿をみせられた。
原本記載写真
浜口英幹は俳人でもあった。号は蕉雪(しょうせつ)。 辞世の句は「雪や月 花を友なるひとりたび」。写真は、横須賀市西浦賀町5丁目の寿光院に建つ英幹夫章の墓。 浦賀奉行所跡のわきを入る静かな谷戸(やと)の奥である
寄稿・補稿欄
皆様からの関連する記事・写真などの寄稿をお待ちいたしております。

参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
皆様からの声
ご意見、ご感想 お寄せ頂ければ幸いです。
ご意見・ご感想をお寄せ下さい


ご氏名 ペンネーム ハンドルネームなどは本文中にご記入下さい。 尚、本欄は掲示板ではございませんので即時自動的にページへ
反映される訳ではありませんのでご承知おき下さい。

メール:(携帯メールも可)