大庭(おおば)三郎景親(かげちか)が軍兵どもを率いて衣笠へ三浦大介義明を攻めに来た。
治承四年(1180)四月のことである。だが、すでに衣笠合戦は終わっていた。
やむなく武山付近まで戻って来たところ道に迷い、やっとの思いで坂道にたどりつくことができた。
この時、まだ八つ時(今の午後二時ごろ)だというのに辺りが暗くなり、四方の山から水が流出、
軍兵どもは水難をさけるのに大あわて。軍兵の中に易学を好み、卜筮(ぼくぜい)をする者がいた。
皆の勧めで占ったところ、こう出たという。「われらが主人は三浦の輩(やから)に家を焼かれ、
今また水難に遭った。
これは『火水未済の卦(かけ)』で、もはや当家も済仕舞の象がある。逆筮してみれば『水火既済の卦』で、
算木をよく組合わせると『天道これを闕(か)く』といって、終わり乱れるという象である。つまり今、
平家はお盛んであるがやがて亡びる。いや、それは目前だ。この平家に仕える主人は一刻も早く去就を考えるべきだ」。
これを聞いた軍兵の仲間たちは、がっくりした。ほどなく夜が明けた。
水は引いた。山頂や高い木に逃げた軍兵どもは一命を取り止め、ホッとした。
この伝説は、三浦大介義明が寛仁大度の勇将で、しかも無益の殺生を嫌い、鳥獣の命を取ることをしなかったため、
その恩に報いようとした、古むじなの仕業だった、という。
横須賀市武山地域にかかわる伝説の一つである。だれいうとなく、にわかに暗くなった坂道を「八暮坂」といい、
軍兵どもが水を越して逃げた所を「越水」と呼んだ、とか。また、古むじなの塚と伝える塚もあったので、
それを「むじな塚」と呼んだ、とも。
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