石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

久里浜ゴルフ場 @ 『戦争で2年後閉鎖』
原文

京急久里浜駅から国鉄久里浜駅を含めた平作川の西側一帯に、かつて「久里浜ゴルフ場」があった。 今の久里浜工業団地の南半分に当たる。ゴルフ場開きは昭和十年十二月十三日に行われた。 翌十四日の新聞には、こう報じられた。  「光栄の第一球! 両殿下を奉迎・久里浜ゴルフ場開き」として本文は。  「久里浜ゴルフ場の仮開場式はきのふ午前十一時、朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)、 久邇宮朝融王(くにのみや・あさあきらおう)両殿下台臨のもとに挙行された。理事長徳川頼貞候、 同夫人をはじめ、牛塚東京市長、石田本県知事等、京浜の名士多数、いづれも自家用車で乗込み、クラブハウスで 午餐(さん)ののち午後一時、始球式に移り、朝香宮殿下には見事な第一球を打たせられ、 続いて両殿下には青野良三、清水揚之助らをお相手にゲームを開始遊ばされ、夕刻御帰京遊ばされた」。  ゴルフ場は日中戦争が始まると閉鎖されたというから、わずか二年足らずの存在だった。 敷地は以後、練兵場と化し、終戦直前には耕作地となった。クラブハウスに通じた橋だけが今、かろうじて健在。 地元の内川町内会発行の,「内川だより」(第15号)で、地元の阿部むねさん(六五)は、こう書いておられる。  「日の出橋より平作川の右岸をさかのぼっていくと、東洋モータースをすぎ、間もなく左側、国鉄の線路に面してこわ れかけた橋がある。(元の踏切で現在は閉鎖されている)。 この橋が昭和十年十二月十三日に久里浜ゴルフ場、光栄の久里浜リンクスとして開場されたハウス正面に入る橋であった。 戦後は、この橋と踏切は農道として使われていた大事な道であった」。  ゴルフ場の資料が見あたらない。”宮様ゴルフ”と呼ばれた所だけに惜しい。
原本記載写真
昭和10年12月13日に朝香宮、久邇宮両殿下を迎えて「久里浜ゴルフ場」がオープンした。日中戦争が始まると、 まもなく閉鎖された。写真は、クラブハウスの正面に通じた橋で、今も残っている。知られざる横須賀の一面である

久里浜ゴルフ場 A 『芝に随分な下ごえ』
原文

 平作川の西側一帯に当たる今の久里浜工業団地の南半分にあった「久里浜ゴルフ場」の開場式は、 昭和十年十二月十三日に行われた。この日、地元の五人の女性が接待役に選ばれた。 その一人が横須賀市久比里一丁目にお住まいの伊藤勝代さん(六九)。お話をうかがった。  「昭和八年に高等女学校を卒業し、あのころは女子青年団の幹事を務めていました。 帯付きの和服で五人、お手伝いにあがりました。来賓の皆さんにお茶を差し上げたり…。 水道がなかったので井戸水を吸い上げて使いました」  また、この辺りの移り変わりに詳しい山田鉄五郎さん(七五)にも。山田さんは、 横須賀市久村にお住まい、今は市農業委員会の農地部会長としてご活躍中。  「ゴルフ場といっても、今のような立派なものでなく『こんな水たまりの所にできるのかな』と土地の者は笑っていました。 周囲から出る水を、築いた土手の外へ回して平作川へ流し込み、ゴルフ場になる部分を乾かしたのです。 そんな点が特徴でしょうか。  今の国鉄の駅付近は、一番よい所だったそうで、また観音堂の辺りに池がありました。 ペリー上陸記念碑の裏に、尾形という男爵が住んでいて、ゴルフ場の責任者を務めていた、という話でした」  「そうそう、ゴルフ場の芝生には、下ごえをかけましてね。今では芝をうまく育てるのに。 随分まあ、芝生に下ごえをかけたなんて考えられない。太田さんという方が監督をしていたようです。 ゴルフのボール、あの玉拾いは学校の子供がしたんでしょう。まだまだのんきな時代でしたから。 『あす希望者を募って玉拾いに行け』と、学校の先生にいわれた、とか…」  山田さんのお話は、戦後の土地問題にからむ裏話に及ぶ。そして「横須賀の隆盛は久里浜の人々のおかげだ」と言い切る。
原本記載写真
「…ゴルフ場の芝生には下ごえをかけましたね。今では芝をうまく育てるのに」と地元の人は苦笑したものだつた。 写真は、当時の「久里浜ゴルフ場」の一角。練兵場を経て、戦後は久里浜工業団地に変わっている

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