石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

武山海兵団 @ 『予備学生の訓練も』
原文

今の米海軍基地内にあつた横須賀海兵団は、昭和十六年十一月二十日、横須賀第一海兵団と第二海兵団に分かれた。 第二海兵団は、農地を買収し、海岸を整備して、横須賀市御幸浜(みゆきはま)、今の陸上自衛隊武山駐とん地に開設された。 第二海兵団は「海兵団令」によって、軍港の警備や艦船などの勤務を免ぜられた下士官兵を収容し、 必要に応じて艦船その他の定員を補うのが目的だった、という。 また「海兵団練習部規則」にある通り、他の海兵団と同様に志願兵、徴兵、補充兵の新兵教育に努めた。 第二海兵団は昭和十九年一月四日、武山海兵団と改称され、翌二十年五月一日には、団の近くに長井分団が新設された。 海兵団長は、初代が工藤久八、次いで勝野実、江戸兵太郎、再び勝野実、終戦時は水野準一、 いずれも階級は海軍少将。終戦時といえば二十年八月十五日現在、 団には士官が百四十八人、下士官兵が二万千七百四十一人、在籍していた。 ちなみに、海兵団は横須賀、武山のほかに、大湊(青森県)、浜名(静岡県)、田辺(和歌山県)、大阪(大阪市)、 舞鶴、平(京都府)、呉、大竹、安浦(広島県)、佐世保、相補、針尾(長崎県)、鎮海(朝鮮)、高雄(台湾)の計十六カ所あつた。 武山海兵団は、新兵教育とともに、大学在学中の学生を短期養成で海軍士官とする予備学生の訓練も行われた。 第一期兵科予備学生が、第十期飛行科予備学生とともに入隊したのは、昭和十七年一月だつた。 その翌年、十八年十月二十一日、文部省と学校報国団主催による「出陣学徒壮行会」が雨降りしさる明治神宮外苑 で催された。世にいう「学徒出陣」だ。 日の丸をたすきに四千三百十三人の学生が、三崎街道をー路、衣笠から武山へ と向かった。昭和十八年十二月のことだった。
原本記載写真
今の陸上自衛隊武山駐屯地の所である。横須賀市御幸浜(みゆきはま)にあった武山海兵団では、 短期養成で海軍士官とする予備学生の訓練も行われた。 写真は、学生たちの入隊記念=市内上町4ノ9 服部純昌さん提供

武山海兵団 A 『面会、最大の楽しみ』
原文

「学徒出陣」で昭和十八年十二月に四千三百十三人の学生が海兵団に入団、海軍二等水兵となった。 そのうち三千三百五十四人が第四期兵科予備学生に合格、翌十九年二月に武山学生隊へ入隊した。 七月に卒業、十二月に海軍少尉に任官、終戦で中尉となった。約三千人が海軍士官の服装も凛々しく整列した時 は、実に壮観だった、とか。
だが六カ月以後、戦列に臨んでから終戦までに二百七十四人が戦死。 ここで、武山学生隊歌を紹介しよう。
一 東に昇る陽に映えて
輝さそめし富士の嶺の
雪の清きを 心とし
名も勇ましき武山に
誠一つのわざを練る
我ら 武山学生隊

二 南の海に散りゆきし
人の心を心とし
三千年の 誉ある
海の護りを身に負ひて
決然立てりみさきもり
我ら 武山学生隊

(後略)
予備学生ならずとも家族との面会が最大の楽しみだった。 昭和十七年から教官を務めた津村敏行さんの著「海豹士官行状記」(昭和五十六年刊)から引用させていただく。 「…学生たちは、はずむ心を押えながら行合川を出発、通常行進の足どりも軽く、新田義貞が愛刀を海神に捧げて海に 放りこみ、潮をひかせたといい伝えのある稲村が崎を、横目でにらみながら、鎌倉は坂の下から長谷に出て、やっと若営 大路から、鶴が岡八幡宮の境内へと進んでいつた。 あらかじめ、学生たちの家族に知らせてあったから関東一円はもちろん、遠くは九州、北海道からも、父母、 兄弟、姉妹が、できるだけのご馳走をつくって持参、今やおそしと待ちあぐんでいた。 そこへ海軍士官の凛々しい軍装に銃をかついだわが子、わが兄、わが弟がやってきたのだから、たまらない。 『わーツ!』とばかり、たちまち起こる歓声のどよめき!・・(後略)」
原本記載写真
海軍にとつて名物行事だった辻堂演習の帰路、鎌倉の鶴が岡八幡宮に参拝した第4期兵科予備学生は、 家族との面談が許された。写真は、参拝中の予備学生たち。この時に「武山学生隊歌」が披露された

武山海兵団 B 『予備学生の随想緑』
原文

「昭和一八年一〇月二日文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。当時、私は(龍谷大学)学部三回生であり将(ま さ)に卒論についての具体的構想に入ろうとした矢先、あわただしく下宿を引き払つて帰省。 一二月十一日、大竹海兵団に現役兵として入団した」とは、武山海兵団で予備学生の教育を受けた法宗玄教 (のりむねしずのり)さん(64)の著「随想=渋柿」(昭和五十八年刊)の書き出しの部分である。 法宗さんは尾道市東久保町にお住まい。戦後、教育界に入り広島県内の高校に勤務。 昭和五十七年に勇退され、今は浄土真宗本願寺派の僧籍にある。以下は「随想=渋柿」に書かれた予備学生の記録。 「一八年一二月一一日、入団。一三日午前入団式。和歌山某以下四三一三名に対し海軍二等水兵の命下あり。 一五日、予備学生・生徒採用のための学科試験とクレペリン検査。一八日、口頭試問。 翌年一月二四日、含格発表。約一三〇〇名落第。二六日午後五時一四分の列車にて横須賀に向う。 副長藤田大佐より『業詳(ツマビ)カナラザレバ胆大ナラズ』との餞(はむなけ)の言葉あり。 二七日午後八時、横須賀駅着」。 「三〇日、大竹では玄米食。拡声器は『よくかんでゆっくり食べよ』と二回放送していたが、 ここでは、その逆であって出来るだけ早く食えという」 「学生の身分は准士官の上、候補生の下。学生たるの自覚と実力の養成に努めよ(区隊長の訓辞で)」、 「二月七日、第一種軍装・白手袋・短剣着用で集合。教育部長牟田口大佐の訓辞ー往時、帝国海軍 は年一〇〇名の士官を養成すれば足りた。現在はそのー〇〇倍も要求されている。すなわち百年分の士官がこのー年間 に必要である。ここは戦場であり、戦場動作をもって対処せよ…」
原本記載写真
短期養成で海軍士官となる予備学生の身分は准士官の上、候補生の下だったという。 写真は、学生隊の分列行進、当時の武山海兵団の兵舎と団庭がよくわかる(昭和19年3月30日)。 終戦の前の年である

武山海兵団 C 『修了後術科学校へ』
原文
昭和十八年十二月、世にいう「学徒出陣」。約四千人の大学生が入団、二等水兵に任命された。 翌十九年二月に他の海兵団からも含め、三千三百五十四名が予備学生に合格、七月に約一割が落後、 最終的には二千九百七十八名が巣立ち、各術科学校へ進んだ。 そのー人、横須賀市上町四丁目にお住まいの服部純昌さん(62)にこ登場願った。 服部さんは海軍中尉で終戦、戦後は神奈川県庁へ。昭和五十六年に県立横須賀青少年会館長で退職された。 「父も海軍でしたから今、”親子二代記”を執筆中です」と前おきして、こう話された。 入団直後は出身大学別の編成で、グループは五十音順でした。私は中央大学。 『チ』のあとの『ツ』『テ』はなく、『ト』は東大。人数の関係で、東大生が押せ押せで ー部おりました。予備学生になってからは各班(十一人ずつ)官立、私大がほぼ半々で、現役の有資格者あがりがー、二 人いましたね。班内の長テーブルでの定位置は東大、京大など官立が上座、私ら私大は、すみっこでした」 「学生隊の編成ですか。三千人が十二の分隊に分かれ、一コ分隊は五つの区隊、一コ区隊は五つの班から成り立っていました。 分隊監事、分隊長のことですが階級は大尉、区隊長は中尉でした。一種の自治組織をとっていたので、全学生の長、 伍長補がおり、教員は別組織で優秀な下士官、高等科のマーク持ちが当たりました」  服部さんは卒業後、館山砲術学校へ。 十九年十二月に少尉に任官。横浜の船舶警戒部に務めた、という。今の横浜市中区の生糸検査所である。 部隊は山手の共立女子学園やフエリス女学院の校舎に分散。二十年五月には長崎へ行き武装商船「大椎丸」(ー万d)に乗船、 警戒隊指揮官として活躍中に終戦。わずか二年弱の海軍生活の体験が服部さんの心を支えてきた、とみた。 第四期兵科予備学生の”戦友会”は今、全国的にみて、地域別や術科学校別など大小四十はある。

原本記載写真
第4期兵科予備学生に3354名が合格したが、5カ月後に約1割が落後、2978名が武山海兵団を巣立った。 写真は、昭和19年7月15日の予備学生修業記念=横須賀市上町4ノ9 服部純昌さん提供
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参考文献・資料/リンク
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