石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

無限抱擁 @ 『不入斗墓参を描く』
原文

「秋の彼岸(ひがん)の入りに、母、松子、信一、同伴で横須賀にまで出かけた。 横須賀にある松子の養父の墓へ行くのであった。母はこの彼岸の墓参を前から口にしては、 皆で暮らすようになった心喜びを見せていた。信一は松子が成人した其(その)土地を見たかった。 また、かの女達の知合で深田の小母(おば)さんと呼ぶ剛(つよ)い性格の老婦人を見たかった…」。 これは、最後の私小説作家といわれた滝井孝作の作品「無限抱擁」のー部である。 滝井は明治二十七年(1894)生まれで、岐阜県高山市の出身。芥川竜之介や志賀直哉に師事、 作品の数こそ少ないが、俳句で鍛えた写生眼で、人生や自己をみつめ、 その骨太な独特の文体は”手織り木綿(もめん)のようだ”と評された、という。 「無限抱擁」は、吉原で知りあった妻松子との出会い、恋愛、結婚、その死という、 波乱に富んだ作者の体験をさらけ出した作品である。 松子は母、夫信一を伴い、横須賀にある養父の墓参りに、不入斗(いりやまず)の寺まで出掛けた。 その部分を紹介しよう。 「横須賀では汐入の長い坂を登り不入斗の寺へ行った。門前の店屋(みせ)で樒(しきみ)を求め本堂から廻って裏山 の墓場へ出た。墓石に信一は手桶の水をそそいだ。かの女達はお隣の墓石を、『赤んべ爺(じい)さんの墓も掃除がしてあ る』『深田の小母さんがして下さるのねえ』そう云って其墓石には額(ぬか)づいた。 爛(ただ)れ目で赤んべ爺さんと綽名(あだな)された独り者が近隣の世話で茲(ここ)に埋められた。 その墓石と松子の養父の墓石とは、深田の小母なる家の墓場に在った。そして漸(やや)佇(たたず)んで信一の頭には 松子の少女時代が覗(うかが)われた・・・」。  墓参のあと三人は、松子との結婚に骨折ってくれた小母を訪ねるために、深田の町へ向かった。
原本記載写真
最後の私小説家といわれた滝井孝作の「無限抱擁」には、大正末ごろの横須賀市内がよく描かれている。 写真は、汐入町3丁目の長源寺坂。「汐入の長い坂」とある。明治、大正のころは、もっと急坂だった

無限抱擁 A 『瞬時の幸せ永遠に』
原文

最後の私小説作家といわれた滝井孝作は、作品「無限抱擁」で、自らの体験をさらけ出した。 以下は、不入斗(いりやまず)の寺を出た、信一(作者自身)、妻松子、母の三人が、深田の小母(おば) の家を訪ねたくだりである、 「三人連れはそれから寺の門前に戻り、連隊の屋敷、練兵場の原、柏木田の昼の遊郭、 その道筋を深田の方へ歩いた。残暑で汗染み疲れと空腹とを覚えて来た。 信一はそれを口に出した。『何か喰(く)おう。つまんでも』やがて三人は、ある鮨(すし)屋の壁に造り付の長細い腰掛 に並んんだ。鮨の飯は少し硬かったが、味(うま)く食えた」。 三人は、それぞれの思いで松子が少女のころを暮らした土地を見たかったし、 また二人の結婚に骨折ってくれた深田の小母にも会いたかった。 だが会ってみると、小母は神がかっている様子。特に信ーはがっかりして帰路を急ぐ。  周囲の反対を押し切つて結婚したものの妻松子を失った主人公信一にとって、結婚生活は束の間のものだつた。 だが、彼の心には永遠のともし火と化した。 言ってみれば、瞬時の抱擁が無限の抱擁にほかならなかった」。 この「無限抱擁」は大正十年から十三年にかけて発表された。行間ににじむ純粋哀切の気は、読む人の胸を打たずには おかない作品、といわれる。 作者の滝井孝作は、文学賞のーつである芥川賞が昭和十年に創設されて以来、五十七年まで同賞の選考委員を務め、 数多くの前進作家を世に送り出した。彼自身の作品は「無限抱擁」のほかに、処女作「弟」(大正九年)、「結婚まで」(昭和 二年)、「欲呆け」(八年)などを発表。戦後は自然を主人公とした「松島秋色」(二十七年)なども。 なお、彼の芸術観を知り得るものとしては「折柴随筆」(十年)がある。昭和五十九年十一月に九十歳の生涯を終えた。
原本記載写真
「三人連れはそれから寺の門前に戻り、連隊の屋敷、練兵場の原、柏木田の昼の遊郭、 その道筋を深田の方へ歩いた」と、滝井孝作の「無限抱擁」にある。写真は、横須賀市不入斗町・西来寺。 しっとりとしたふんい気がいい、

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