石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

短編小説「少年」『ドックに胸躍らせ 』
原文
農民を描くことに文学的生涯をかける作家、和田傳の初期の代表作、短編小説「少年」は、 大正十四年(1925)に発表された。作者は明治三十三年(1900)生まれで、厚木市の出身。 それぞれ貧農の家に育った二人の少年が、父親と米穀屋に米を売りに行く。 米を売らないと年を越すことができない。 米穀屋の蔵の白壁に落書きをした二人は、心を通わせ合い、横須賀のドックで働く兄のことを語り含う。 その横須賀の空に光る探海灯を見て、少年二人は、はるか遠い将来の夢を確かめ合う。 以下は、「少年」のー部である。 「 あすこは横須賀だぞ。と、やがて、子供は言いかけて来た。言われて恒吉は振りかえつた。 子供は東南の地平線の果てを眺めていた。遥かに、東南の軍港の空では、すでに、暗い夕空を截(た)ち切って、 縦横に、照明灯の光が走りまわっていた。  うん、横須賀の探海灯だ。恒吉は気色ばんで答えた。 おらの兄ちやんは横須賀にいるんだ。 おいらも、いまに横須賀に行くんだ。子供は、やがてふいに笑い顔を見せながら言った。 お前もか? おらもドックへ行くんだ。 恒吉は、先んぜられたことが恨めしいように、せき込んで言った。せき込んで、 それでもはっきりと恒吉は言った。と、その言葉だったことに気がついた。かくて、その言葉を口に出して言ってみると、 恒吉は急に、唇からからだのなか全体に、何かすがすがしいものが流れ込んだような気がした。 その言葉一つで、すっかりと、からだの内側が洗い落とされたような気持ちを覚えた。 圧しひしかれたような、さきほどまでの心が、その言葉一つで、ペンペン草のように頭をもちあげて 来たようが気がした。  そうよ、おらも横須賀へ行くんだ。恒吉は、また繰りかえした」

原本記載写真
「 おいらもいまに横須賀に行くんだ」「 お前もか?おらもドックに行くんだ」とは、短編小説「少年」の中から。 写真は、戦前の横須賀のシンボルだった海軍工廠(しょう)のガントリークレーン(昭和15年ごろ)

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