石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
三浦中学校 @ 『妙蔵寺で授業開始』 |
---|
昭和三年二月二十九日に財団法人三浦中学校設立の認可申請書が、文部省に提出された。その内容は。 「三浦中学校設立認可申請書 中学校教育ノ普及卜之(コレ)力機関ノ建設ハ目下喫緊ノ事ナリ然(シ力)ル二既設 ノ校数ハ尚甚(ハナハ)ダ少ク試ミニ横須賀ヲ中心トスル一市十三ケ町村ノ現況ヲ見ル二小学校数二十八校ヲ有シ 卒業生数年々約参千五百名ノ内、中学校入学志願者六百名ヲ算スト難(イエド)モ附近唯一ノ県立横須賀中学校ハ毎年募集人 員甚ダ少ク故(ユエ)二是(コレ)ガ志願者ノ過半数ハ遠隔ノ不便卜多大ノ失費トヲ忍ビテ逗子、鎌倉、横浜ノ諸学校 二通学スルヲ常トシテ 然ラザル者ハ志ヲ断チテ学業ヲ捨ツル二至ル之誠二聖代ノ恨事二候 萩(ココ)二於(オイ)テ是等入学不能ノ子弟ヲ救済ス可(べ)ク中学校二準拠シ 男子ノ必要ナル高等普通教育ヲ施 シ 特二国民道徳ノ涵養二力ヲ致シ聊(イササ)力現世文教二貢献セント欲シ本校談立ヲ企図致シ候間 認可相成度 (タク)関係書類相添へ此(コノ)段申請候也 開校年月日 昭和四年四月一日 (後略)」 この申請書では当初、校名を「相模中学校」としたが、「三浦中学校」に書き改めている。 認可を見越して生徒を募集。編入試験の結果、一年生六十五人、二年生三十五人、三年生三十三人の計百三十 三人が入学した、という。 入学式は昭和三年四月十五日、三浦郡衣笠村字(あざ)金谷五百九十九番地、今の横須賀市金谷一の五の十三、創立者 の福本寿栄(ひさよし)邸で行われ、二十日から今の池上四丁目、大塚山妙蔵寺で授業が始まった。 創設当時の教員は、佐藤長秋(英語)、竹折輝達(国漢)、分部忠雄(数学)、菅忠道(歴史・博物)、 早川敏雄(地理)、和多田為蔵(習字)、福本寿栄(修身)、柴田繁吉(図画)、大西勝彦(体操)、高橋均(武道)の先生方。 いずれ劣らぬ名物先生だった。特に、佐藤先生は東京帝国大学法学部出身で、明治十五年生まれ。徹底的な英語教育に務 められた、とか。 |
中学校としての県の設立認可を見越して昭和3年4月10日、横須賀市金谷の創立者、福本寿栄邸で入学式が 行われた。教員10人、生徒133人だった。写真は、1学期の間、仮校舎となった市内池上町の大塚山、妙蔵寺である |
三浦中学校 A 『校章、つたの葉に「中」』 |
---|
昭和三年四月からー学期の間は、横須賀市池上四丁目の大塚山妙蔵寺で授業。 二学期には、今の市立池上中学校が建つ一角に仮校舎一棟を造り移転した。 次いで四年一月、金谷山大明寺下の現在地へ。 仮校舎を分解、在校生が運搬した、という。同年四月、待望の学校設立が認可された。 教職員十人、生徒百三十三人で発足したが、今は三浦高等学校。 昭和五十九年五月現在、教職員百十二人、生徒千六百三十四人に。新装になった白亜(あ)の校舎を訪ねて、 事務長の高橋豊先生(70)にお話をうかがった。 「これが認可書です。昭和四年四月五日付で当時の文部大臣、勝田主計から認可されました。 同時に、初代校長兼理事長に福本寿栄の就任、生徒の定員五百人、寄宿舎の未設置などの認可も。 寄宿舎といえば、未設置についての意見書が、これです」 紹介してみよう。「寄宿舎設置二関スル件 本校開設ノ位置ハ別紙二記セル如(ゴト)ク県道(旧鎌倉街道)二沿へル 上二東西トモ各数町二シテ三浦半島ノ枢軸ヲナス完全ナル県道二連絡スルヲ得ル所二アリ故(ユエ)二郡下各町村及ビ 横須賀市ヨリ通学セントスルモ順路甚(ハナハ)ダ安全容易二シテ苦シム所殆(ホトン)ドナシ 試ミニ県立横須賀中学校二就(ツ)イテ見ルモ現在 寄宿舎二収容セラルル者一人モナク逗子開成中学校二於(オイ) テハ約六百名ノ生徒中 其(ソノ)寄宿舎二収容セラルルモノ僅(ワズ)カニ十数名ニ過ギザル状態ニアルハ皆、通学上 交通至便ノ位置ニ在(ア)ル二依(ヨ)ルモノナリ本校モ此(コノ)現況ヨリ推シテ其必要ヲ認メザルニヨリ当面 寄 宿舎ヲ建設セズ 然(シ力)レドモ収容生徒数逐年増加シテ其必要ヲ生ジタル時ハ御指定ヲ仰ギ直(タダチ)ニ之(コレ) ヲ建設スル予定二アリ」 校章は創設者、福本家の家紋「つた」の葉をとり、葉の中に中学の「中」を入れた、という。 |
昭和4年1 月、学校は金谷山、大明寺下の現在地へ移った。認可の条件にあった寄宿舎は設置しなかった。 写真は、現在地に建つ校舎。池上から在校生が運んだもの。 敷地の大半は、福本家のー等地の田地だったという |
三浦中学校 B 『一期生は26人卒業』 |
---|
開校式は昭和四年四月二十七日に行われ、七月に金谷山大明寺下の現在地に四教室が完成。 敷地は創始者、福本家の所有地はじめ大明寺などから借りた、という。その土地借用承諾書は。 「承諾書 神奈川県三浦郡衣笠村金谷百六十六番地外(ほか)拾筆ノ田地平面弐千五百参袷坪ヲ 三浦中学校々地並二敷地トシテ使用スル事ヲ承諾シ右証明候也 昭和参年拾壱月拾五日 神奈川県三浦郡衣笠村金谷大明寺住職関本龍門 (後略)」 当時は水道施設はなく、生徒は自宅から水筒を持って来るか、校内唯一の井戸水を利用した。 「今でもその井戸は保存してあります。大明寺のわき水です」とは、三浦高校の高橋豊事務長(70)の話。 水質検査の報告書を見せていただいた。 「井水中ノ『アンモニヤ』及ピ『亜硝酸』ノ検査 依頼者三浦中学校 当局二依頼サレタル井水ハ無色透明、 殆(ホトン)ド浮遊物ナキモノニシテ『ネスレル』氏試薬、及ピ沃度亜鉛澱粉(デンプン)液二対シ反応ナク 『アンモニヤ』及ピ『亜硝酸』ヲ舎有セザルコトヲ証ス。 横須賀市汐入町六番地 茶木薬局 薬剤師茶木長蔵」 「五十年のあゆみ=三浦高等学校」(昭和五十四年刊)によると「昭和五年十一月三十日 三浦郡浦賀町高橋家が 学校経営の主体となり、高橋力ク、第二代理事長に就任する。 六年三月三十一日、初代校長福本寿栄(ひさよし)退任する。四月一日、第二代校長に内堀維文就任する。 六月十五日、第二期工事として四教室を竣(しゅん)工。 七年三月一日、校旗を制定し校歌も(作詞福本友治郎、作曲山本正夫)。三月八日、第一回卒業証書授与式を挙行」。 内堀校長は、神奈川県師範学校長を退官した人。ちなみに、第一期生は二十六人。 青雲の志を抱いて、大明寺山下を巣立っていった。 |
三浦郡衣笠村金谷、今の横須賀市衣笠栄町、大明寺のわきの現在地に待望の新校舎が誕生。 生徒は歓声を上げた、という。池上時代の仮校舎は姿を消した。 写真は、4教室の新校舎(昭和4年7月)。この校舎は戦後もしばらく使われていた |
三浦中学校 C 『17年間愛唱の校歌』 |
---|
一、義気に富みたる三浦の武士が 起りし此庭(ここ)の学びの庭に いそしむ友の力はやがて 輝く御代(みよ)の光を添えむ 二、忠勇無比なる大介公が 昔のあとを偲(しの)ぴつふみつ きたふる友の心はまさに 移り行く世の鑑(かがみ)とならむ 三、君のみことば きもにえりこみ 人の行く道たがふことなく ちかへる友の望みはつねに 日本男子(やまとおのこ)の誉れをあげむ。 この校歌は、昭和七年三月に制定され、第一回卒業証書授与式で高らかに歌われた。 戦後、二十三年四月に今の校歌に改訂されるまで十七年間、在校生によって愛唱された。 再び「五十年のあゆみ=三浦高等学校」(昭和五十四年刊)から 「昭和八年一月一日、第二代校長内堀維文退任する。 ニ月二十三日、第三代校長に内田正広就任する。 十一年七月二十五日、第三期工事として校長室、職員室、二教室竣(しゅん)工する。 十一月十四日 第二代理事長高橋力ク退任、第三代理事長に高橋恭一就任。 十一月十六日 第三代校長内田正広退任する。 十一月二十七日 第四代校長を理事長高橋恭一兼務となる」。 翌十二年四月に校章が改定された。笹竜胆(ささりんどう)に中学校の「中」の字を入れたもので、 この衣笠の地にゆかりのある源氏と、理事長高橋家の家紋から取つた。 昭和十三年四月には定員七百五十人、翌十四年には第四期工事として講堂、七教室を竣工し、 校庭の土木工事を完了した。同年九月に創立十周年記念式典、十五年には定員を千人、 校名を「神奈川県三浦中学校」と改称した。 十六年八月には、第五期工事として木造二階建て八教室が完成。 この年十二月に太平洋戦争始まる。当時のー年生は二十年三月、一年早く、繰り上げ卒業となった。 |
昭和12年に校章が改定、笹竜胆(ささりんどう)に「中」となった。衣笠の地にゆかりのある源氏と、 理事の高橋家の家紋から取ったという。写真は、横須賀市馬堀海岸での水泳訓練中の5年生(昭和16年7月) |
三浦中学校 D 『創設に多大な苦労』 |
---|
三浦中学校創設者、福本寿栄(ひさよし)は明治十一年(1878)、三浦郡衣笠村字(あざ)金谷で生まれた。 二十七年に横須賀町立尋常高等横須賀小学校を経て、県師範学校本科と簡易科に学び三十三年に卒業。 その後、横浜市の小学校教員を皮切りに、横須賀市立高等八幡山小学校をはじめ、 豊島実業補習学校(兼務)、尋常豊島小学校、女子技芸学校を歴任、大正十一年に尋常沢山小学校長となり、 昭和四年に三浦中学校を創設した。 明治末から大正末の約二十年間、余暇を活用して各種講習会に参加。三浦郡主催の水産科、 東京神田での代数や幾何、横浜市教育会の体操、法制経済、物理、生理、音楽、手工科など学んだコースは、 二十三にも及ぶ。 三浦高等学校主事で、ご自身も教壇にあった福本三郎さん(七三)i福本家を語っていただいた。 「祖父の清之輔は、衣笠村の村長や県会議員を経て大正九年に衆議院議員に当選、十一年に現職で亡くなりました。 今の小泉純一郎代議士の祖父、又次郎氏と親交があり、逓信大臣就任の時は、清之輔の墓参に来て下さつた。 清之輔の弟、新吉が汐入尋常小学校長などを務め、その妻のユキが横須賀幼稚園を創設しました。 清之輔の長男、まあ私の父ですが、寿栄が三浦中を創設しました」 「父は村長になってから学校の経営を、親類の高橋家にお願いしました。 その昔は、いとこの間柄でした。あの三浦郡長の小川茂周(しげちか)とも。 ともかく経済力がなく、創設は大変だったようです。戦後五年ごとに寿栄の慰霊祭を大明寺で開いていただいております」 昭和二十九年十月に行われた慰霊祭での祭文を拝見した。 第六代校長、石井頴一郎工学博士が、創設者の労苦を謝すとともに学校教育の充実、発展を誓っている。 |
中学校創設者の福本寿栄は昭和4年から2年間、初代校長を務めた。 全財産を投げ打って学校の基礎を築いたといわれる。写真は、創立当時のおもな教員。 中央が福本校長、左端は竹折輝達さん |
三浦中学校 E 『認可へお百度参り』 |
---|
「大学は出たけれど就職はなく、不景気のどん底でした。国の信州へ戻ったところ片瀬に住む姉から電報が来ました。 姉は三浦中学校設立の代表者、南波国二という人の近くにおりました。 きっと私の就職を頼んでおいたのでしょう。昭和三年四月のことです」と語る竹折輝達さん(79)は、 明治三十八年(一九〇五)生まれで、横須賀市金谷にお住まい。 竹折さんは今、学校法人横須賀学園理事長で、若葉幼稚園長。そのー方、長野県下伊那郡高森町出原(いずはら)の浄 土宗真光山宝泉寺の住職を兼ねる。三浦中学校へは昭和十九年まで勤務、終戦前後は招かれて小田原女子商業学校長に。 戦後は二十六年から二十四年間、横須賀市議会議員を務め、四十二代目の議長にも就任。 三浦中学校設立のころのお話をうかがった。 「設立認可は昭和三年四月の予定でしたが、一年遅れました。その間、言語に尽くせぬ苦労をしました。 学校の認可というのは大変なものです。代表の南波国二さんは学校づくりが仕事のようだったし、 市の教育課長だった大塚孝唯さんは途中で去られて商業学校を設立。せっかく集まった生徒が、かなり商業のほうへ 移ってしまいました」 「福本寿栄(ひさよし)は沢山小学校長でしたが、私学振興に関心を持ち、理事のー人になっていました。 退職して設立に専念したわけです。陣容を整え直し文部省へ申請書を再提出。すでに生徒がおったために県の段階で認可できる 『乙種』、つまり『中等学校』で第一年目を過ごしました。『乙種』は三年制ですから翌四年の春、四年生になる生徒は県立横須賀 中学校をはじめ、逗子開成中、鎌倉中などに編入させてもらいました」 「中学校の認可は実業学校と異なり厳格でした。財団法人、基本金五万円、定員五百人で十学級などの基準を満たさね ばならなかったのです」 「私は毎日のように県や文部省へ。日参とか、お百度まいりというのは、あのことをいうのでしょう」。 設立の思い出話は続く。 |
三浦中学校設立当時の教員で、今ご健在なのは横須賀市金谷にお住まいの竹折輝達さんおひとり。 中学校の認可を得るためにご苦労なさった。生徒募集のためには各小学校を訪ねたとも。 写真は、三浦中学校第 1 回卒業記念 |
三浦中学校 F 『経営に口出す将校』 |
---|
横須賀市金谷にお住まいの竹折輝達さん(79)のお話は続く。「三浦高校が建つ現在地は当時、農地としては、この辺りで ー等地でした。平坂上の横須賀高等女学校(今の県立横須賀大津高校の前身)の移転候補地だったようで、まあ不便なの で大津へ行きました」。 「昭和四年四月の入学生は十二、三人。私は書記の長谷川さんと自転車で各小学校を回りました。 弁当持ちで三浦半島じゅうですよ。六年生に話したいから十分間、時間をくれ、と頼みました。 『おれのほうで話しておくよ』という校長さんもいたり、さんざんひやかされたり・・・」 「当時の生徒は向学心に燃えていました。たとえば、岩崎君というのがいました。 今の湘南女子高校、当時の軍港裁縫女学校でしたが、そこの書生でした。白戸校長から『うちは女子ばかりだから、面 倒みてくれないか』と頼まれました。彼は弘前(ひろさき)高校から東北帝国大学へ進みました。 その後、冨岡君というのは、松山高校から京都帝国大学へ。”横中のピリになるよりは三浦のトップにな れ”と、教員全員が授業に命をかけました。なんにも設備のないなかで、生徒諸君もがんばってくれましたね」 「卒業生が、全国的に活躍するには『三浦中学校』よりは『神奈川県三浦中学校』がいいと申請。 『県立とまぎらわしい』と県にいわれましたが認可されました。名称は大切なものです」 「学校に現役の配属将校が来ましたが、やがて『軍の方針は…』といっては、学校経営にも口を出しました。 卒業生が軍隊に入って不利になるので、ずいぶんいやな思いをしました」 竹折さんは、長野県の浄土宗真光山宝泉寺の住職でもある。境内に平和観音像を建立。 「長い間、公職に専念したため、ごぶさたしてしまった罪滅ぼしに」と苦笑なさる。 中央高速道路から見える像の開眼式は、昭和五十六年十月に行われた。 教心一路、その情熱に、心打たれる。近くには横須賀学園信州寮も。 |
昭和10年代になると学校らしく整ってきたものの戦時色が強化、軍から学校に派遣されていた配属将校が学校 経営に口を出し始めたといわれる。写真は、富士山麓(ろく)竜が原廠(しょう)舎付近で、5年生による軍事教練 (昭和16年) |
三浦中学校 G 『競争意識に燃える』 |
---|
昭和七年三月八日、第一期生二十六人が巣立った。そのー人が杉崎頭雄(けんゆう)さん(72)。 横須賀市池上町四丁目、日蓮宗は大塚山妙蔵寺の住職。妙蔵寺といえば三浦中学校創設の地だ。 杉崎さんは戦時中、ビルマへの派遣教員のあと文部省に務め、ユネスコ国内委員会を最後に退職された。 庫裡(くり)のー室でお話をうかがう。 「私は二年生に編入しました。三年生は申請中の学校認可に不安を感じて、大半は逗子開成中、 一部は県立横中、神奈川師範一部、鎌倉中へ移ったので、私らがー期生になりました。 本堂に紅白の幕を引き教室にしました。三崎、野比、下浦の友人は自転車通学でした。 中学への進学者ですか。私の場合は衣笠小ですが、ークラス四十五人のうち、逗子開成中三人、 県立横中二人、三浦中は私一人の計六人でした」 「私らは血の気が多く、特に英、数、国は猛勉強しました。二年の時に『北大医学部へ行く』と宣言したのがいました。 創設早々の小所帯でも、決して卑屈にならず、プライドを持ち続け、私らなりに他校との競争意識に燃えていました」 「プライドを…」という言葉は、そのまま後輩への徹(げき)とみた。杉崎さんは戦時中、インド洋上で七時間も漂 流した、という。九死にー生を得、戦後は社会奉仕一筋。特に、ビルマとの国際親善は知る人ぞ知る。 ビルマの竪(たて)琴が部屋を飾る。「贈り主はかつてお世話した青年です。彼は今、ビルマの赤十字 社総裁です」とおっしゃる。また「日本で腕を磨きたい」と希望する若い女医さんの見事な日本文の手紙に、 目を細める。 ついでながら、妙蔵寺の庭園は明治初期に整えられた、そうな。戦前、連合艦隊が入港の折、長官らがくつろいだ、とも。 帰りがけに「ノーゼンカヅラの花咲く七月が見事。ぜひどうぞ」。池のコイが早春の日差しに踊った。 |
「いい先生に恵まれましてね。創設早々の小所帯でも決して卑屈にならずプライドを持った」 と1 期生の杉崎顕雄(けんゆう)さん=横須賀市池上町=は語られる。 写真は、昭和7年3月当時の教職員の皆さん |
三浦中学校 H 『半数が大学へ進学』 |
---|
「見るに見かねて生徒募集の手伝いをしました。理事者のー人が設立した商業学校は不景気、 就職難の時流に乗ったが、中学校の認可は条件が厳しかったようです」と語るのはー期生のー人、 栖原(すはら)政明さん(72)。横須賀市池上町、大塚山妙蔵寺の近くにお住まい。 お話は続く。 「生徒が集まるかどうか心配で、卒業後も様子を見に学校へ。入学試験の日は受験生の人数を数えたものです。 それでも学校は悪い生徒を処分。そんな後輩がいると『親と会って話してくる。先生が行くとうまくない。 もー度チャンスを』なんていって、家庭訪問をしました。逆に、なぐられたこともあった…(苦笑)。 なかには、親が喜んで『先輩が来てくれたのだ。心を入れ替えろ』と息子にいっていた例も」 栖原さんは、卒業証書第一号。日本大学卒業後は、海軍航空技術廠(しょう)工員養成所の数学教官を務め、 戦後は横須賀市役所に入り社会福祉一筋、養護老人ホーム「民生寮」寮長で退職された。 お話によると、一期生二十六人のうち十三人が大学へ進んだという。 進学先は、立正大学へ三人、早稲田大学へ二人、あとはー人ずつで明治学院英文科、弘前(ひろさき)高校文科から東北帝国大学、 中央大学法科、日本大学の電気科、土木科、芸術科、今の神奈川大学、今の日本体育大学へ。 一方、就職も十三人で、横須賀鎮守府や農林省生糸検査所などへ。 横須賀近在のー期生が年一回、恩師の竹折輝達先生を囲む、とか。長髪をなでながら晒原さんは、 こう力説された。「進学をあきらめかけた折に、三浦中学校が設立。みんな頑張りました。私たちは学校とー体。 わが家を思うごとく学校のことを思っていました」。かいま見た一期生の心意気、それは、そのまま母校を 見守る情熱である、と受け取った。 |
よく学びよく遊ぶー方で、1期生は生徒の募集や、処分寸前の後輩の面倒もみた。 26人のうち13人が大学へ進学したという。写真は、卒業証書第 1 号。栖原政明さんは横須賀市池上町、大塚山妙蔵寺近くにお住まい |
三浦中学校 I 『19期生 戦下の記録』 |
---|
戦前の旧制中学校は、男子校で五年制だった。だが、終戦直前はー年繰り上げとなり、 昭和十六年度の入学生は二十年三月、四年生で卒業した。三浦中学校の場合、十九期生の約半数二百十人がそれ に当たる。約半数とは、同時に卒業した五年生も十九期生と呼ばれているからだ。 戦雲の下、中学生活を送つた十九期生の後半二年間を「在学中の記録」(昭和五十四年刊)からー。 洋数字は年月日である。 第三学年 18・4・9地区別警備隊の編成、学級名を東西南北から一〜四に改称。 4・15全校行軍(木古庭ー田浦ー追浜ー金沢文庫)。 5・14放課後、五年生のお説教(大明寺で)。 6・3訓練空襲警報。 6・17軍需部へ作業。 6・25富士板妻廠(しょう)舎で軍事教練(三泊)。 7・27軍需部へ(四日間)。 8・4校内防空壕作り。 9・2大楠山へ植樹。 9・10馬堀で水泳訓練(四百b)。 9・20体力検定、予科練に六人合格。 9・27大介祭、閲兵。 10・15英語S先生着任、女の先生だ。 10・27T先生宅の稲刈り。 11・1〜3校内武道大会。 11・13査閲(査閲官大橋大佐)。 12・25成績表示が、甲乙丙から優良可に改正。 19・2・1暗渠排水作業(一週間)葉山町木古庭その他で。 第四学年 19・7・5動員令下る。一、二組は川崎市田辺新田の横山工業KKへ。三、四組は横浜市金沢区の日本製鋼 所へ。 11・5「四カ月動員」が「通年動員」に。 20・3・27八カ月ぶりに学校へ戻り校庭で卒業式。六月ごろまで大学進学者も引き続き工場に留まった。 この十九期生の同窓会が昭和五十四年秋に行われた、という。九十人の”五十男”が三十四年ぶりの再会と母校の隆 盛を喜び、久しぶりに恩師十二人の”講義”を拝聴。 名代の配属将校、久保寺大作教官は「諸子ヲ公平二扱ツタ・・」。 甲府市で今、レストランを経営。同じ甲府からみえた教練教師、津金枡明(のりあき)教官は、 しみじみと語られたそうだ。「君たちになぐられるのを覚悟して…。でもー人ぐらいは、止めてくれるだろうと思 って、お招きを受けました」 |
昭和16度入学生は、1 年繰り上げで終戦の20年に卒業、在学中後半の2年間は、 軍事教練や学徒動員で明け暮れた。写真は、富士山麓(ろく)板妻廠(しょう)舎で教練中の3年4組 (昭和18年6月)。足にはゲートルを巻き、制服は国防色、学帽は戦闘帽だった |
寄稿・補稿欄 |
---|
参考文献・資料/リンク |
---|
皆様からの声 |
---|
ご意見・ご感想をお寄せ下さい |
---|