石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
海軍少佐下川万兵衛 @ 『急降下実験で殉職』1 |
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太平洋戦争開戦の八カ月前、昭和十六年四月に横須賀海軍航空隊で開発された零式戦闘機、 つまりゼロ戦のテスト中、海軍大尉下川万兵衛が殉職した。 主翼に異常なしわが寄る原因を究明しようと、二回目の危険な急降下実験中、 事故で横須賀市夏島沖に散った。この辺の事情は作家、吉村昭の小説「零式戦闘機」に 「…急に機首を下げると突っ込むような姿勢で夏島の沖三百b、水深一〇尋(ひろ)の海中に墜落した・・・」とある。 殉職後、下川は海軍少佐に昇進。その業績を称(たた)えた碑が航空隊夏島飛行場の滑走路わきに建てられた。 みかげ石で高さー・五bの長方形。碑には。 「表彰状 海軍少佐 従六位勲五等下川万兵衛 剛騰不撓不屈因難ヲ排シ終始身ヲ以テ克(ヨ)ク職務二尽瘁(スイ)シ海軍航空 術力向上二資セル功績真(ツト)二偉大ナリ仍(ヨッ)テ茲(ココ)二之(コレ)ヲ表彰ス 昭和十六年四月十七日 海軍大臣正三位勲一等及川古志郎」 また当時、胸像も建立。台座には、こう刻まれていた、という。「…横須賀海軍航空隊教官トナリ海軍航空ノ重要ナル実 験研究二尽捧シ絶大ノ貢献ヲナス 君身ヲ持スルコト厳 人二接スル二寛 克ク言行一致シ挙止端正 事二臨ムヤ見敵必滅 剛毅(キ)不屈ノ精神ヲ以テス(中路) 君壮烈職二殉ズル時 君が徳ヲ讃(タタ)フルモノ期セズシテ相謀(ハ力)リ茲二胸像ヲ建テ永ク高風ヲ景仰セントス」。 書は航空隊指令、海軍大佐上野敬三だつた。 碑は数年前、日産自動車追浜工場の拡張工場中、地下一bの所から発見。 関係者からー時、保管を引き受けたのは横須賀市追浜本町にお住まいの清本勝美さん(57)。 「一時預かりましたが、海上自衛隊横須賀地方総監部を経て、今は鹿児島県鹿屋(かのや)市、 鹿屋航空基地資料館の前庭に建てられています」とおっしゃる。 |
昭和16年4月、ゼロ戦のテスト中、横須賀市夏島沖で殉職した海軍少佐下川万兵衛の碑が戦後、 旧航空隊構内から堀り出された。写真は、同碑の除幕式で、胸像の左隣が不二子夫人= 市内追浜本町1ノ52 清本勝美さん提供 |
海軍少佐下川万兵衛 A 『碑は鹿屋の基地に』 |
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これは零式戦闘機、つまりゼロ戦のテスト中に、横須賀市夏島沖で殉職された一パイロットの碑をめぐる物語である。 市内追浜本町にお住まいの清本勝美さん(57)は、昭和四十八年の夏、日産自動車追浜工場の工事中に発見された「海軍 少佐下川万兵衛」の碑をー時、保管した。 碑は今、鹿児島県鹿屋(かのや)市の海上自衛隊鹿屋航空基地、資料館の前庭に建つ。 そこに至るいきさつや後日談を、清本さんにうかがった。 「ご遺族がご健在ならお渡ししようと思って・・・。碑をめぐる人との出会いに学びました」と、前おきしてて、こう語る。 「地面を掘り起こすユンボを操作していたのが、たまたま友人、横浜市金沢区に住む黒坂勝雄さんでした。 日ごろ航空隊などの話を交わしていた仲間。彼から『碑らしい石が出た』という知らせがあったのです。 私は陸軍少年飛行兵出身のために関心がありました」 「十年は過ぎ昭和五十八年の夏ごろ、市図書館務めのご近所の方の勧めで、 神奈川新聞で紹介された。そうそう、碑の裏に下川少佐の出身地が『北海道旭川市』とあるので、北海道庁務めの友人、 吉本実さんにご遺族捜しを頼みました。北海道新聞の夕刊を飾りましてね・・・」 「反響があったそうで、吉本さんから手紙がきました。『マスコミの力というか恐ろしさを痛感。夕刊の配達直後、多く の方から電話がありました。まずは下川少佐の実弟、下川夏雄さんが見つかりました』とありましてね…」 下川少佐の弟さん、夏雄さん(72)は今、札幌市北区篠路町上篠路にお住まい。 お話によると、少佐の夫人は海軍少将の娘さんだった。大阪市でご健在、という。 清水さんあての礼状には「適切な処置で粗末にならず大切に保存できたことを感謝しております」とも。 |
零式戦闘機のテスト中、夏島沖で殉職した海軍少佐下川万兵衛の実弟、夏雄さんは札幌市でご健在であることがわかった。 写真は、鹿児島県の鹿屋(かのや)航空隊基地に落ち着いた碑=横須賀市追浜本町1ノ52 清本勝美さん提供 |
海軍少佐下川万兵衛 B 『碑を巡っての”縁”』 |
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零式戦闘機、ゼロ戦のテスト中に散った「海軍少佐下川万兵衛」の碑は今、 鹿屋(かのや)航空基地、資料館の前庭に建つ。ここの資料館では旧海軍航空ゆかりの品々を展示中。 下川少佐の隣には、横須賀海軍航空隊で同じテストパイロットを務め、のちに戦死した二階堂易少佐 の遺品。自民党の二階堂進代議士の実弟だ、そうな。 横須賀市追浜本町にお住まいの造本勝美さん(57)のお話は続く。 「本当に碑をめぐる多くの人々とのご縁に驚いています。ユンボで碑を掘り当ててくれた黒坂さん、 北海道新聞を通じてご遺族を見つけてくれた吉本さん、碑の発見を喜ばれた『零式戦闘機』の作者、柳田邦男さん、 当時『文芸春秋』出版部長だった向坊(むかいぼう)寿さん、鹿屋航空基地の皆さん・・・。むろん、 札幌市でご健在の下川少佐の実弟、下川夏雄さんも(72)も、碑をめぐる人々とのご緑については、 私と同感のようです」。 清本さんは昭和十八年十月、福岡県の大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校に入校した少年飛行兵第十五期生。 事実上、パイロットの最後だった、という。終戦までわずか二年たらずの体験は、戦後の清本さんの生きる力となった、とか。 「戦後は鍛えられた大刀洗の地に住みたかった。陸軍、海軍の違いはありますが、ここ追浜も航空隊跡。 東京から移り住み、飛行場だった日産自動車追浜工場にお世話になっています」と語る。 今年六月、清本さんは北海道へ渡る。 少年飛行兵時代の同期の集いが札幌市で開かれるからだ。下川夏雄さんとの”ご対面”が楽しみだ、とおっしゃる。 「ここまでかかわった以上、欠けた碑の頭の部分を復元したいのです。胸像が無理なら、ゼロ戦の模型でも。 私の願いです・・・」。歓談のあと、清本さんと迫浜の小道を歩い た。日だまりに小さな鉢が並ぶ。そこに春をみつけた。 |
海上自衛隊鹿屋(かのや)航空隊基地の資料館こは、海軍航空隊ゆかりの品々が保存されている。 写真は、下川少ン佐(左)、かつての同僚、二階堂少佐(右)の展示品 =横須賀市追浜本町1ノ52 清本勝美さん提供 |
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