石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

航空隊殉職将士追悼碑 『試験飛行中に災難』
原文
京急中央駅わきの山上、日蓮宗猿海山龍本寺の境内である。本堂に向かって左手、 木立の下に「横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑」が建つ。高さー・二bの台上に堂々たる 自然石の碑だ。高さ三・六b、幅一・二bもある。  追悼碑は昭和九年七月五日に建立、発起人は相陽時事新聞社の最上蕘雅社長。 当時の横須賀市長小泉又次郎はじめ名士が後援者として名を連ねている。 碑の裏面には、「遺芳千秋」の題字下に大正四年から十五年までの殉職者、 航空隊関係の海軍中佐井上二三雄はじめ四十一人、航空廠(しょう)関係の海軍中佐 志村喜代作はじめ十八人の氏名も。 井上は群馬県利根郡の出身、大正八年に静岡県清水港の上空で殉職した、という。 殉職といえば、横須賀海軍航空隊の場合、大正四年三月六日、追浜沖上空での事故が初めて。 塔乗機はモーリス・ファルマン十五号、殉職したのは安達東三郎、武部鷹雄の両大尉、 柳瀬久之丞三等兵曹の三人だつた。 ついでに、追悼碑の隣に目を向けよう。「海軍機関士五氏之墓」が建つ。 海軍機関士、従七位勲七等伊藤房吉、正八位勲八等山田基、横田三郎、安藤繁松、田子七郎の墓。 明治二十八年(1895)九月に建立、書は海軍中将伊藤萬吉による。 ちなみに、この五人の機関士は。フランスで建造された軍艦「千島」を日本へ回航中、 愛媛県近くの海上でイギリス商船ラベナ号と衝突、多数の死傷者が出た。 時に明治二十五年十一月三十日。五人は当時、横須賀造船所から選抜された回航員だった、といわれる。  話を戻そう。昭和の年代になると航空隊の殉職者は、特に新型機の試験飛行、 つまりテスト・パイロットに多かった。 その中には零式戦闘機(ゼロ戦)活躍の前夜、夏島沖に散つた海軍少佐下川万兵衛がいる。

原本記載写真
大正年間の海軍航空関係の殉職者は60人を超える。昭和に入ると、殉職するのはテスト・パイロットが多かったという。 写真は、横須賀市深田台の龍本寺境内にある「横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑」

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