石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

横須賀海軍航空隊 @ 『33年間も荒鷲活躍』
原文

ライト兄弟が、人類最初の飛行に成功したー九〇三年に遅れること九年、大正元年(1912) 十一月十二日に大正天皇即位記念の観艦式が行われた。この日、アメリカやフランスから持ち帰った水上機二機が、 公式に初飛行。これが海軍航空の第一歩だつた。以来、終戦までの三十三年間、海鷲(わし)たちが活躍…。 話はさかのぼる。明治四十二年(1909)に山本英輔(えいすけ)海軍少佐(のちの大将)の提案で航空研究が始まった。 当時は、気球や飛行船が対象だったので、飛行機の研究のためドイツやフランスへの留学が始まった。 翌四十三年、東京代々木練兵場で陸軍の徳川好敏、日野熊蔵両大尉が初飛行。 徳川機はフランス製のアンリー・ファルマン式で四分間、高度七十bで距離三千b。 また日野機はドイツ製のグラーデ式でー分三十秒、高度二十bで距離七百b。 一方、海軍では四十五年に航空術研究会を発足、横須賀海軍工廠(しよう)造兵部水雷工場で飛行機の修理が始まった。 水上機四機 フランスのモーリス・ファルマン式二機、アメリカのカーチス式二機を購入したのだ。 横須賀市追浜の海岸沿いに海軍飛行場が完成。面積は東西二百b、南北六百bだったが、 大正に入ると、次第に拡張されていつた。 大正二年に、中島知久平機関大尉が造兵部に新設した飛行機工場の主任となった。 のちに中島飛行機株式会社を創設した人である。翌三年、運送船「若宮丸」が水上機母艦となり、 四年に「若宮」と改名。そのころ東京帝国大学に航空学講座が開かれた。  大正五年三月に、海軍航空隊令が発布、四月に、横須賀海軍航空隊が開設された。 初代司令は海軍大佐山内四郎、「若宮」を航空隊母艦とした。同年七月に初めて夜間飛行が行われた、という。
原本記載写真
大正5年4月に横須賀海軍航空隊が開設された。それ以来、昭和20年の終戦まで33年間、 海鷲(わし)たちが活躍した。写真は、昭和初期の複葉機=同航空隊追浜飛行場で。 追浜の朝は、そのエンジンの音で明けた

横須賀海軍航空隊 A 『大震災で30機破損』
原文

大正十二年1923)九月一日の大震災で横須賀海軍航空隊の飛行機、 飛行艇の破損は大小三十機に及んだ。残存機の整備に務め翌二日、横廠(しよう)式 第一一八号機が東京方面の被害調査に飛び立った。  拡大する航空兵力を支えるために昭和七年三月に海軍航空廠令が制定、四月には追浜に 海軍航空廠が開設された。そこで昭和四年以来、工廠にあった航空機実験部や発動機実験部、 さらに、工廠造兵部の飛行機工場が移管された。 その後、航空廠は次第に整備され、昭和十五年には海軍航空技術廠、二十年二月には 第一海軍技術廠と改称された。 同時に、横浜市金沢区釜利谷(かまりや)にあった支廠が独立、第二技術廠となった。
一方、横須賀海軍航空隊は十七年一月に追浜海軍航空隊と改称された。 終戦直前のニ十年三月には田浦海軍航空隊が関設。ここは飛行機や飛行場も持たず 、航空魚雷取り扱い要員の養成に務めた。 終戦時の航空隊司令と在籍者数は次の通り。迫浜=少将松田千秋、士官四百人、 下士官兵六千八百六十九人、計七千二百六十九人。田浦=大佐土田久雄、士官七 十人、下士官兵七百三十六人、計八百六人。  「横須賀海軍航空隊隊歌」を紹介しよう。作詞は海軍切つての詩人、大佐松島慶三だつた。
横須賀海軍航空隊隊歌
一、野島が浦のハつの景 尽きぬ眺めに憧(あこが)れて 雲間遙(はる)かに富士が嶺(ね)を 朝な夕なに仰ぎ見る 帝都の守りああここぞ 横須賀海軍航空隊

二、夕べ涼しき夏島は 国のみのりぞ生みてけん 桜草咲くこの庭は 空の若鷹(たか) 育(はぐく)みぬ 壮途抱(いだ)きて天(あま)かける 月日はここにいく年ぞ

三、姿雄々しい艦上機 精鋭無比の飛行艇 世界に誇る航空の 威力集めて横須賀の 港の空に備えたる 己(おの)が務や軽からず。
原本記載写真
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