戦後、横須賀市夏島町や浦郷町のー部は北部工業地帯として生まれ変わった。
この辺りは、海軍航空発祥の地である。明治末から飛行場建設のための土地買収や海岸の埋め立てが始まった。
そのころの様子が「田浦町誌」(昭和三年刊)に、こう書かれている。
海軍の土地買収 「明治四十二、三年の頃追浜の買上げが海軍の手で始められた。
『横須賀にあるアメリカからきた飛行機の練習をする所になるのだそうな』。
そんな話が土地の人々に交された。憲兵が丘陵の麓(ふもと)で警戒してゐるといふ評判が立った。
一人の若者が岡の上からひそかに展望した追浜の有様を、その友人に、こんなに囁(ささ)やいた。
『おい!追浜の畑がきれいにぶっつぶされて、だだっぴれえ野原になったぞ。
それから西ちょうの隅にトタン屋根のでかい家が出来て、そこから妙なものを出してゐたぞ。
翼があって車があってな、それからうなり出すと、すばらしい威勢で走り出すだ。
砂だか煙だか、わけの分らねえものが濠々(もうもう)と立つだよ』。噂(うわさ)は噂を産(う)んだ」。
海軍航空隊の建設 「横須賀海軍航空隊となってからの発展は眼覚(めざ)ましいものであった。
丘陵にはトンネルが穿(うが)たれ兵舎の工事が始まる。トンネルが切り取られる頃には名物の烏(え)帽子島が消し飛んで、
憲法島、夏島が半分姿を失ふ。野島州(す)が大半埋立てられて、飛行船の巨大な建物が怪物に聳(そぴ)える」。
飛行場の様子
「陸上機が付近を滑走する。元の追浜の汀(なげさ)には滑走台が幾つも設備され、岸に沿ふて格納庫
が軒を並べる。滑稽(けい)な姿の気球までが浮揚する。落下傘の実験爆発投下の練習、
飛行機の二、三十台はー時に飛ぶ。夜間飛行が赤縁灯を明滅さして星の間を縫ふ」。
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