京急追浜駅を背にして県道を行くと左手、鷹取川にかかる神応(かんのう)橋わきに横須賀市追浜行政センターが建つ。
この行政センターの管内は、かつての三浦郡浦郷(うらのごう)村である。
村は鉞切(なたぎり)、日向(ひなた)、榎戸(えのきど)、深浦の四つに分かれ、
小字(あざ)は四十四も。ついでに今、町や駅の名称となっている追浜は小字の一つにすぎなかった。
呼び方も「おいはま」からいつしか「おっぱま」となった、という。
さて、行政センターの先の右手に市立夏島小学校、県立追浜高等職業訓練校、岡村製作所追浜工場が続く。
浦郷町四、五丁目である。この辺りが鉞切と呼ばれた。
戦前、住人のー人だった蒲谷周太郎さん(76)は、今は横浜市金沢区六浦町にお住まいだが、お話をうかがった。
「昭和の初めごろ、鉞切には約二百五十軒の家があったでしょう。それが海軍航空廠(しょう)建設で立ちのきとなっ
た人たちが、山の手のほうに移り、家の数もだいぶふくれ上がりました。
お互いによそへ去り難かったのです。昭和十年代になると、今度は航空隊用地の拡張が何回か。
そのたびに立ちのきを受け、終戦の時に残ったのは、正禅寺近くの数軒でしたか」
「蒲谷という姓が多く、浦郷小学校一クラス六十人のうち鉞切からの子供は二十人ほどでしたが、
十二、三人が蒲谷でした。ですから、よく同姓同名がいました。今ならA、B、Cなんて区別するの
でしょうが、当時は甲、乙、丙とか、体格で大、小・・・。
同姓同名といえば、あるお年寄りの所へー通の手紙がきました。封をあけたら、これが恋文、
ラブレタTなのです。『これはお前のとこの息子あてだろ』と、同姓同名の若者がいる家へ、届けてあげたそうです。
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