平家追討に尽くした蒲冠者(かばのかじゃ)源範頼(のりより)は、弟の義経(よしつね)とともに兄頼朝の怒りにふれた。
このため範頼は伊豆修善寺を逃れ、相州榎戸(えのきど)の港に舟を寄せた、という。
榎戸は鎌倉の外港として栄えた所、今の横須賀市浦郷町二丁目である。
土地の漁師平兵衛は頼朝の迫手を避ける範頼一行を洞窟へかくまう。
建久三年(1192)七月である。洞窟(くつ)は竹やぶで外からは見えない、ちょうどいい隠れ家。
今の浦郷町五丁目、岡村製作所追浜工場の敷地内に当たる、と伝えられる。
さて、洞窟付近にも迫手が出没。平兵衛は、なたで立ち向かいー行を守った。
鉞切(なたぎり)の地名は、こうして生まれた、とか。
「もうこれまで」と範頼は里人に礼を述べ、与える物の何もないことをわび、蒲冠者のー字「蒲」と、かくまわれてい
ていた谷間の「谷」を取つて「蒲谷」の姓を与えた、とも。
一行は対岸の室の木の太寧(たいねい)寺で自害したという。
大正九年(1920)、土地の人たちは由来を刻んだ碑を建立。また昭和十八年の海軍用地拡張による発掘で骨つぼや写経石が出土、
しかし、範頼のものとは断定できなかった。場所は、今の関東学院六浦小学校付近に当たる。
範頼の墓は、伊豆修繕寺や愛媛県伊予市の鎌倉神社にも。同神社には「蒲殿のいよいよ悲し枯尾花」などの句碑が建つ。
また、埼玉県桶川在の東光寺には、五輪塔が残る。そのわきに「蒲桜」と呼ぶ桜の木が。ここは安藤藤九郎盛長の領地、
範頼の妻は盛長の娘だつた。
どこまでが伝説なのか史実なのか 。義経とともに範頼も、悲劇の人として語り継がれた。
歌舞伎で「鎌倉山蒲桜重」(範頼一代記)や「蒲冠者後日聞書」(範頼切腹)が上演されたのは、
明治三十三,四年(1900〜01)である。
|