石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

海軍無線40年 @ 『外国製手本に改良』
原文

海軍の無線通信機やその施設を支えたのは、横須賀海軍工廠(しょう)造兵部無線電信電話の工場だった。 そこで明治末から終戦までの約四十年間、務められた小石秀雄さん(91)にご登場願った。 小石さんは明治二十六年(1893)生まれ。聖ヨゼフ病院の所にあった諏訪尋常小学校、緑が丘学院の所にあった 八幡山高等小学校を卒業後、船越実業補習学校に学んだ。造兵部の工場に務め出したのは十七、八歳といわれるから、 明治四十三、四年ごろである。 お住まいは横須賀市汐入町三丁目の山の中腹。改築中の波島山長源寺の本堂が坂道越しに見える静かなたたずまい。 春日和の日差しの中で、お話をうかがった。 「工廠の造船部や造機部は、今の米海軍基地内でしたが、造兵都は船越にありました。水雷や大砲と違って無線関係は 秘密扱いのため、工場は山の向こう側。関係者以外は立ち入り禁止でした。工場主任は木村俊吉という工学博士、 この人は海軍無線の元祖で高等官三等でしたね。上町の緒明(おあき)山に住んでいました」 「工場では、イギリスのマルコニーや、アメリカのフェンセンデンなどを取り寄せて研究を重ねました。 明治三十六年に製作された三十六年型の別名サンロク式、四十三年型のヨンサン式、そして、大正元年のガンネン式などは国産の部類 だったでしょう。外国製をお手本に改良に改良を加えました」。  ここで小石さんは手の入った庭先をみつめながらつぶやかれた。 「ご存じでしょ、日本海海戦前の信濃丸が打った『敵艦見ユ』の第一報。あれはたしかサンロク式 の無線機だった、と思います。その五、六年後に務めたので、無線は時代の先端をいく職種でした」。 他に変えられぬ特殊な分野だったために、昭和二十年の終戦まで”無線一筋”だった、とおっしゃる。
原本記載写真
無線通信機は、外国製を手本に改良を加えた。写真は、92式特受信機改4。92は皇紀2592年(昭和7年)の下2 ケタで、4番目の改良型のこと。陸上自衛隊通信学校の通信参考館で展示中

海軍無綿40年 A 『設営に戦地を巡る』
原文

明治末から終戦までの約四十年間、海軍の無線通信に携わつた小石秀雄さん(91)のお話。 「無線機は造兵部、無線電信電話の工場から、艦船部隊や各地の望楼に取り付けました。 故障したといわれれば、呉でも佐世保でも出掛けました。新製品が東京の技術研究所から来ると、 横須賀鎮守府裏山の無線電信所に備え付け実験したものです。『よし』となると、各所へ設営に行きました。 戦時中は中国大陸や南太平洋の島々へも・・・。当時は秘密行動でしたから、よく見学を申し込まれ断るのに苦労しました。 私らの立場は、無線機が完全に働きさえすればいいのです。通信の符号や暗号は使う通信科兵の分野です。 それにしても通信科の人たちはよくやりました。 このトンツーの世界だけは、いきなり飛び込んでもできない。通信科兵たちは短期間に、知識や技術をぶち込まれて、 一人前になっていきました。慣れないうちは、トンーつでも聞き落としたら大変。 そこで現字機というのを使ったものです。受信中、細長いテープに、トンは点、ツーは長い棒で書かれて出てくる機械です。 熟練した人が耳で聞くのよりは、読む時間だけ遅くなりますが」 明治の末、見習工の日給は、普通は二十銭。小石さんはニ十四銭だったとか。 「私の日給でみんなが大騒ぎでした。見習工から並み工となり、伍長、組長、工手(て)、技手と、 昇進する道がありました。伍長で五、六人の部下を持ちました。通勤ですか。横須賀駅から田浦駅まで汽車でした。 不通の時は線路を歩いたものです」  終戦後、無線機や通信技術は神奈川県警察に受け継がれた、という。招かれて小石さんは県警嘱託として、 警察無線の基盤づくりに尽くされた。おじゃました部屋には「勲六等単光旭日章」の勲記が飾られてあった。
原本記載写真
「私たちの立場は無線機が完全に働きさえすればよかったのです」と語るのは、その道40年の小石秀雄さん =横須賀市汐入町3丁目=。写真は、陸上自衛隊通信学校の通信参考館こ展示中の無線通信機

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