石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

海軍通信学校 @ 『合格者100人に3人』
原文

海軍無線通信の始まりは、明治三十三年(1900)に発足した無線電信調査委員会だった、という。 その三年後、横須賀市田浦町の海軍水雷術練習所内で無線通信の教育が始まった。 練習所は、四十四年に海軍水雷学校と改称、校内に通信部が誕生した。 大正十三年(1924)九月、第二十九期普通科電信術練習生として海軍初の少年兵が入校した。 百人に三人の合格率だった、とか。通信部は昭和五年に独立、水雷学校と同居のまま海軍通信学校となった。 「朝(あした)芙蓉の峰の雪 夕長浦に寄る波の 眺めも清き学び舎(や)は 磯辺に高くそびえたり」と、 校歌が力強く歌われた。通信学校は、昭和十四年に今の横須賀市久比里(くびり)二丁目、 陸上自衛隊通信学校の所に移転。ここでの第一期生、正しくは第五十二期普通科電信術練習生、約千百人が入校した。 以後、終戦までの六年間、戦雲の下で任務に精励。その間の活躍ぶりは、五十二期生による「海軍少年電信兵」(昭和五十六年刊)に詳しい。 この期の人たちによつて四十七年十一月に、学校内の通信神社跡へ碑が建てられた。 「海軍通信学校跡」という書は、かつての学校長、志摩清英元中将による。 また、五十年七月に和歌山県の高野山、巴陵(はりよう)院に慰霊碑も。
海軍通信学校校歌
一、げに日の本は浦安の 波静かなる
田浦湾 国の鎮めと益良夫(ますらお)が
技を磨きし学び舎は いや栄え行く
世と共に 移りてここに久里浜
二、渚(なぎさ)に建てる記念碑(いしぶみ)は
遠き鎖国の夢の跡 寄する仇(あだ)浪打砕き
三千年の国礎(いしずえ)を 護る健児がたゆみなき
ここぞ練武の新天地。
 昭和十八年、海軍通信学校は、校名が横須賀海軍通信学校と改称された。 山口県防府市に防府海軍通信学校が開校された、ためである。
原本記載写真
海軍通信学校は、横須賀市久比男、現在の陸上自衛隊通信学校の所で終戦を迎えた。 写真は、同校内にある「海軍通信学校跡」の記念碑。昭和47年秋に、第52期生の皆さんが建てた

海軍通信学校 A 『合調音語表 覚える』
原文

電信や発光信号に使われたモールス信号は「合調音語表」で覚えた、という。 たとえば、ハならハーモニカ、長音に短音三つ、つまりツー、トン、トン、トン(ー・・・)である。
「合調音語表」を紹介してみよう。
イ「・ー」伊藤、口「・ー・ー」路上歩行、ハ「ー・・・」ハーモニカ、
ニ「ー・ー・」入費増加、ホ「ー・・」報告、へ「・」へ、ト「・・ー・・」特等席、
チ「・・ー・」地価騰貴、リ「ー ー・」流行地。
ヌ「・・・・」塗り物、ル「ー・ーー・」ルール修正ス、ヲ「・ーーー」和尚焼香、
ワ「ー・ー」ワート言フ、力「・ー・・」下等席、ヨ「ーー」洋行、夕「ー・」タール、
レ「ー ー ー」礼装用、ソ「ーー ー・」相当高価、ツ「・ーー・」都合ドウカ、
ネ「ー ー・ー」獰猛(ネイモウ)ダロー、ナ「・ー・」習フタ、ラ「・・・」ラムネ。
ム「ー」無雨(ムウ)、ウ「・・ー」疑ゴウ、ヰ「・ー・・ー」威光発揚、
ノ「・・ーー」乃木東郷、オ「・ー・・・」思フ心、ク「・・・ー」苦シソー、
ヤ「・ーー」野球場、マ「ー・・ー」マア任ソフ、ケ「ー・ーー」経過良好、
フ「ー ー・・」封筒張ル、コ「ー ー ー ー」高等工業、エ「ー・ーーー」英語ABC、
テ「・ー・ーー」手数ナ方法、ア「ーー・ーー」アウ言フトコウ言フ。
サ「ー・ー・ー」サア行コウ行コウ、キ「ー・ー・・」聞イテ報告、ユ「ー・・ーー」憂国勇壮、
メ「ー・・・ー」明月ダロウ、ミ「・・ー・ー」見セヨウ見ヨウ、シ「ーー・ー・」周到ナ注意、
エ「・ーー・・」回向(エコウ)冥福、ヒ「ーー・・ー」兵糧欠乏、モ「ー・・ー・」孟子卜孔子、
セ「・ーーー・」世評良好ダ、ス「ーーー・ー」数十丈下降、ン「・ー・ー・」旨イ旨イナ(ンメーン
メーン)、”「・・」濁、o「・・ーー・」バス通用期、ー「・ーー・ー」長ウ棒書コウ。
原本記載写真
イは伊藤、ロは路上歩行、ハはハーモーカと「合調音語表」で身につけたモールス信号は、 通信の基本だった。写真は、海軍当時の木造3階建ての兵舎。陸上自衛隊通信学校が使用している

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