石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
平作七坂 @ 『名残を示す屋号も』 |
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衣笠山から大楠山への山なみを背にした横須賀市平作(ひらさく)。 ここには七つの坂がある、という。平作七丁目にお住まいの真島平市さん(71)にうかがった。 造船会社を退職後、郷土史研究に励み、地域の「郷土ひらさく」編集担当のー人。 「平作七坂とは便宜上、私が呼んだ名でして」と前おきして語って下さった。 ◆伝馬場(てんまぱ)坂(平作七ノ六〜五ノ一)。 私立三浦高校近くの国鉄わきの ”大橋” を通り、 すぐ右手の坂を登ります。頂上から池上、阿部倉へ向かう道が伝馬場坂です。 「五街道分間絵図」の「浦賀道見取絵図」(文化三年刊)によると、 平作で唯一の公道でした。坂下に伝馬場、つまり継ぎ立て場があったので、その名が付いたようです。 江戸時代には”大橋”わきに茶店がありました。今なお「伝馬場下」という屋号を持つ家が残っています。 越えるのに難儀した坂は今では三bも低くなり、周辺は住宅でいっぱいです。 ◆新兵衛坂(平作七丁目) 玉龍山福泉寺の裏の坂で、宝暦年間(1751〜63)、近くに新兵衛という人が住んでいました。 代々、新兵衛を名乗る家だった、そうです。今の坂は、もと福泉寺の境内で、昔の坂は坂下から竹林を通り、 かつての大円寺前に出た、といいます。今でも竹林に三十bほどの道が残っています。 ◆おんじ坂(平作七のー八の先) 明治の初めごろに、この坂の途中に石屋を営むお年寄りがおりました。村人たちはお年寄りを『おんじ』と呼んでいまして・・・。 『台畑』と呼ぶ屋号を持つ家の人で、明治十四年に亡くなったとか。 そうですね、昭和四十年ごろまでは道幅も狭く、両側から竹や草が生い茂った小道で面影がありました。 真島さんは「お年寄りに話を聞き、時には過去帳まで見せていただき、平作の過去を一つ一つ自分のものに」と、 張り切っておられる。 |
横須賀市平作にある七つの坂を、地元の真島平市さんは「平作七坂」と呼ぶ。写真は、平作7丁目の伝馬場坂に 残る庚申(こうしん)塔。右端にみえる三猿像は、寛文11年(1671)とある |
平作七坂 A 『2つある長五郎坂』 |
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横須賀市平作にお住まいの真島平市さん(71)のお話は続く。 「平作七坂」の四つ目、あめや坂から。 ◆あめや坂(平作六の五〜十)。 明治の中ごろまで頂上近くにあめを作る家がありました。あめ屋はいつの間にかなくなったが、 明治の末に引っ越して来た人の家を「あめや」と呼び始めたそうです。 ◆妙伝寺坂(平作六の十六の先)。 字(あざ)竹林(たかぱやし)の妙伝寺横の坂です。墓地裏までの百b、道幅は参道を除いて今でもー・五bほどでしょう。 貴重な雑木林が残り、一服の清涼の地といえます。 かつて衣笠村にーつしか小学校がなかったころは、伝馬場(てんまば)や鳥井戸の子供たちの通学路でした。 昔、寺の前は入江のため字石井のほうへ橋が架かっていたそうです。そこで寺側を「橋本」、石井のほうを「橋先」と呼ばれ、 ともに小字になった、といわれます。 ◆「長五郎坂(平作二の八付近)。 長五郎坂は二つあるといいます。一つは城北小学校の裏門近くから東へ衣笠病院へ行く坂。 もうーつは駿河(するが)坂方面から字郷山(ごうやま)、石井、小ケ谷(こげえと)を経て平作二の十一と十二の境 から始まる坂です。この二つの坂道は頂上近くで合流、衣笠病院前に出る訳です。 坂上の旧家、三堀家の先祖に長五郎という人がおられ、代々その名を受け継いだ、といいます。 この坂近くは旧家が多く。石垣や大木に昔の面影が感じられます。 ◆駿河坂(平作三の五の先)。 字駿河坂のすみを通り、平作から寺山、大楠山への登り坂です。 今は坂の全体を駿河坂と呼びますが、本当はその三分の二は陣ケ原、残りが駿河坂。 寺山付近まで車が通れる広い道路なのは戦時中、寺山に砲台が築かれていたから、といわれます。 話し終えて、真島さんはー服。「郷土のことは掘り起こせば出てくるものです。 皆さんとごー緒に勉強していきます。しろうとですから私は・・・」と、お話を結ばれた。 近ごろ各地に、真島さんのような 方が増えた。うれしいことである。 |
戦前は、のどかな田園風景だった横須賀市平作は戦後、開発に次ぐ開発で住宅地に。 だが、旧家の石垣や大木に、昔の面影も残っている。写真は、平作7丁目にみられるカヤぶきの家。 市内では数少くなった |
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