明治四年(1871)に郵便制度が成立した。
横須賀の郵便の普及は早く、東京、大阪などに遅れること、わずか数力月後である。
横須賀、浦賀、次いで堀内、長井の各村に郵便取扱所が誕生した。
横須賀村の場合は、名主・永島卯兵衛(政徳)のニ男良祐が扱った。
取扱所は、八年に三等郵便局に。
三十三年には電信分局と合併、造船所裏門近くに、横須賀郵便電信局を開設した。
そのー方、郵便取扱所は船越、深田、逸見、大津、公郷にも設けられた。
横須賀市史(昭和三十二年刊)には「取扱所の設置されていく順序は、ちょうど市街地域の発展の軌跡をたどるに似ている」とある。
このわが国の郵便の仕組みは、前島密(ひそか)により誕生した。
彼は天保六年(1835)新潟の生まれ。
江戸へ出て医学や洋学を修め、のちに民部、大蔵省に出仕。
明治三年(1870)郵便制度の調査のため、ヨーロッパへ。
翌四年に帰国、わが国の郵便制度を発足させた。
彼は、のちに立憲改進党に参加し、逓信次官や貴族院議員を務め、実業界へも進出した。
また前島は、国字改良論者としても足跡を残した。
いわば、漢字制限や力ナ文字使用の先駆者でもあった。
すでに慶応年間には、時の将軍徳川慶喜に「漢字廃止之儀」を、またのちの明治新政府に「国文教育施行の方法」という具体策まで添え、漢字制度を提言した。
大正八年(1919)、彼は横須賀市芦名で没した。
八十四歳だった。墓は、衣冠束帯の銅像とともに、芦名の浄楽寺にある。
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