佐野村から深田村への丘の上に明治十三年(1880)一月、横須賀海軍病院が開設された。
場所は、のちの市立横須賀病院(火災で全焼)、今の文化会館の所である。
十七年には、東海鎮守府が横浜から移され、「横須賀鎮守府」と改称、初代長官に子爵中牟田(なかむだ)倉之助海軍中将が着任した。
中牟田は、天保八年(1837)の生まれで佐賀の出身。
彼は明治四年(1871)に、のちの海軍兵学校長に当たる兵学頭となり以後、造船所長や東海鎮守府長官を経て、横須賀鎮守府司会長官を五年勤めた。
その後はニ十二年、呉鎮守府の初代長官、海軍大学校長、軍令部長を歴任。
二十七年の日清戦争では、すでに第一線を退き枢密顧問官。十年後輩の東郷平八郎元師のような戦史を飾る機会はなかったが、海軍創設期のホープのひとりだった。
横須賀と海軍との出合いを、中牟田をとおして見詰めたいところだが、手立てがない。
彼は大正五年(1916)に歿した。
鎮守府の建物は今、米海軍基地内の丘の上に健在。
向かって左側の三階建てが、在日米海軍司令部(延べ千五百平方b)となっている。
古い建物は関東大震災で全壊、現在のは大正十五年(1926)、当時の馬淵組が工費約二十二万円で新築した。
いずれも鉄筋コンクリートで、レンガ張り。
ともあれ旧帝国海軍のシンボル、また、大正建築の傑作でもある。
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