石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

噫龍崎訓導 @ 『教え子の危急救う』
原文

これは身をもって教え子の危急を救い、鉄路を愛情の血で染めた殉職美談の物語である。 昭和十七年十一月十九日昼過ぎ、横須賀市立田戸国民学校、今の市立田戸小学校四年生二百二人の児童が 「郷土観察」校外学習のために学校を出発した。 深田台、平坂上、緑が丘を経て、めざすは明治天皇の聖跡「向山行在(あんざい)所跡」だった。 一行は校門から西方三百bの東京急行電鉄(今の京浜急行電鉄)の踏切を渡って深田台へ。 龍崎ヒサ先生の六組が踏切にさしかかると、右手のトンネル内から浦賀行き下り電車が来た。 先頭にいた先生は児童を止めさせ電車の通過を待たせた。たまたま品川行き上り電車も近づいたので、 引き続き児童を待たせたが、一人が下りの通過を見て安心したのか走り出した。 これを見た先生は線路内に入り、児童を向こう側に押し出し、先生自身は電車に接触、鉄路を児童愛の血潮に染めたのである。 龍崎訓導顕彰会がまとめた「噫(ああ)龍崎訓導」(昭和十九年刊)によると「訓導は苦痛の間にありながらも猶(なお) 児童の安否を憂へ『児童はどうした』『児童は無事か』と頻(しき)りに口走るのであった。 午後三時二十分の頃より容態は刻々に悪化し遂(つい)に同五時、とはの眠りに落ちた」とある。 翌二十日の新聞の見出しを拾ってみよう。「教へ子の危急を救ひ鉄路を愛の血で染む 横須賀市立田戸国民学校 龍崎ヒ サ訓導の殉職」(神奈川新聞)、 「学童を助けて女訓導殉職」「危いと叫んで身代り学童を輪禍から救ふ責任感」(朝日新聞)、 「危い・・と飛込み 児童救ふー心に散る龍崎訓導踏切の殉職」(読売新聞)。  浦賀町大津池田の自宅で先生の父親、清吉さんは「かわいい教へ子の身代りになって本人も教師として満足でしょ う。親の口から云ふのも同んですが、家のためにも良く尽くしてくれた感心な子でした」と、涙ながらに語った、という。
原本記載写真
太平洋戦争の開戦2年目である。昭和17年11月19日、横須賀市立田戸国民学訓導の龍崎ヒサヲ先生は、 教え子を救うために鉄路を愛情の血で染めた。写真は、市立田戸小学校に建つ「龍崎訓導顕彰之(の)碑」

噫龍崎訓導 A 『「師道の鑑」と顕彰』
原文

自己の命と引き換えに児童を救つた横須賀市田戸国民学校訓導の龍崎ヒサ先生は、 大正元年(1912)の生まれ。昭和七年に神奈川県女子師範学校を卒業後、豊島尋常高等小学校に奉職、 翌八年に田戸尋常小学校に転任された。 生家は、当時の横須賀市浦賀町大津池田、大津駅から歩いて三十分の農家。お母さんは前年の十六年に亡くなられた。 兄の庄司さんは県立横須賀中学校から陸軍士官学校を経て陸軍大学を卒業。当時は陸軍少佐として前線にあつた。 先生の弟妹は三人、すぐ下の弟さんはその年の九月に亡くなったばかり、もうー人の弟さんは過労で病床に。 先生は龍崎家の大黒柱だった。 昭和十七年十二月十八日午前十一時、文部大臣橋田邦彦から顕彰牌(はい)などの伝達式が行われた。 式場は、龍崎先生ゆかりの四年六組の教室で。「…減私師道二精進シ克(ヨ)ク其(ソ)ノ職責ヲ竭(ケッ)セルモノニシテ斯(カク)ノ 如キハ国民教育ノ任二在(ア)ル者ノ亀鑑卜為(ナ)ス二足(タ)ル…」という趣旨で授与された。 同日午後二時から講堂で学校葬も。遺族席には、実父の龍崎清吉さん、実妹の龍崎スヅさんのニ人。 参列者は二千人近かった、という。 追悼文は文部大臣をはじめとして、次の方々が読まれた。 神奈川県知事近藤壌太郎、横須賀市長岡本伝之助、帝国教育会長代理武部欽一、 神奈川県女子師範学校長後藤真造、横須賀教育会長馬淵曜、四年六組父兄代表山本重治、 六組児童代表清水勝子、横須賀市学務委員代表石渡直次、横須賀鎮守府司令長官海軍大将古賀峯一、 市会議長小暮藤三郎、菩提(ぼだい)寺の萬年山大松寺住職、鈴木雷峰などの皆さん。  私事にわたって恐縮だが亡兄、石井澄(きよし)は当時、神奈川師範学校に在学中だつた。 日記に「訓導こそ教育の鑑(かがみ)、その教心一路に学ぶもの大」といった文章を書き記した。
原本記載写真
龍崎ヒサ先生の殉職は、当時の橋田邦彦文部大臣から「国民教育ノ任ニ在ル者ノ亀鑑卜為スニ足ル」と 称賛された。写真は、訓導の霊前に贈られた大臣の顕彰牌。伝達式は昭和17年12月18日に行われた

噫龍崎訓導 B 『壮絶な愛の心秘め』
原文

当時、田戸国民学校に務め龍崎ヒサ先生と同学年だつた中川須美先生(61)に、ご登場願った。 横須賀市久里浜にお住まい、今なお、身近な子供たちの育成に情熱を注ぐ。 「あれから四十年、あのやさしいほほえみに秘められた壮絶な愛のみ心、それはどれほど私の生きようをお導 き下さったことか。足元にも及びませんでした」と前置きして、中川先生はこう語る。 「私は二年目の新米教師でした。昭和十七年霜月十九日は忘れることができません。 私の受け持ちの四年五組が踏切を渡り終え、下り電車が通過した直後、後ろの六組に悲鳴が…。 振り返った私の目に線路に倒れた先生のお姿がみえました」 「いいお顔でした、本当に。冷たくなったお手から何事もなく動いていた時計をはずしたことも、 刈田を渡る夜風にのる念仏の声や、泣きながら井戸水を汲んだお通夜のことも、昨日のように思い出されます。 戦後、疎開から帰ってからは、ご命日には、お墓参りをしております」 中川先生は当時、十九歳だつた。家で目をうるませながら追悼歌「噫(ああ)龍崎訓導」をオルガン弾き弾き特訓された、という。 その時のけい古台が先生の妹さん、山崎国民学校四年生だつた小林志津さん=横須賀市三春町=。 お話をうかがった。「私は姉の受け持ちと同学年でしたから夜、なにかにつけけい古台を務めました。 ですから今でも『噫龍崎訓導』の歌詞は全部、覚えています」。 その歌詞というのは。
(一)
噫(ああ) 霜月の十九日
校外指導の道すがら
いとし教へ子 救はんと
身は 教学の人柱
(二)
老いたる父を慰めて
病める弟
看護(みまもり)つつ
我等に垂(た)れしみ教へは
女の鑑(かがみ)
人の教訓(のり)
(三)
清くけ高き 白菊の
香もゆかし師の徳を
永遠(とわ)に仰がん
朝夕に 永遠にたたへん
朝夕に

原本記載写真
「壮絶な愛のみ心、それはどれほど私の生きようをお導き下さったことか」とは、同僚の中川須美さん。 写真は、昭和17年10月、遠足で建長寺へ。右端が龍崎ヒサ先=横須賀市佐野町5 ノ17 佐藤国江さん提供


噫龍崎訓導 C 『心の中に生き続け』
原文
昭和七年から十年の間、龍崎ヒサ先生は、多くの散文や短歌を残された。そのー部を紹介しよう。
一日の勤めを終へて大津から田舎道にはいりますと、ほっとします。 青葉の枝がすくすくとのびて天井のやうに道をおほってゐます。その枝をすかして清々(すがすが)しい空が見られます。 かういふ道が果てなく続いてゐたらなあと、うつろな気持で歩くことがよくあります。 はだしでバケツをさげた子供たちにあふ日もあります。 「何がとれたの。」などと云ってバケツをのぞくと、カニエビがごたごたはいってゐます。 やがて夕暮も近づく頃に静かに田の面(おも)を伝って川向ふの佐原のお寺で打つ晩鐘がきこえてきます。
むつとせの学びの園をいづる子に つつがなかれと只(ただ)祈るなる

幾山河こえゆくさきのはるけくも ふみなたがひそー筋の道

蛙なく此(こ)の山里はたそがれて 野風呂の焚火赤々ともゆ

降りしきる雨の最中をひたすらに 母のくすりを求め来にげり

弟二人病(や)む夏の夜の暑きかな ぱたりぱたりと蚊を追ひてゐき

ある時は情なき事を云ふ弟に 声ふるはせて慰めても見つ

母いまさず寂しき父にまゐらせむ 特配の酒なりいそぎ帰り来

母上も弟も死して兄は征(ゆ)く 父と二人の秋の夜かも

天地(あめつち)はにぎはふ世々の 春なれど 我が心には咲く花もなし

 龍崎先生は今、横須賀市小矢部の曹洞宗、万年山大松寺に眠る。 ご命日やお盆には、ゆかりのある人々のお参りが絶えない。教え子のー人、 佐藤国江さん=横須賀市佐野町=のお話。 「遠くからもおみえになります。同窓生の変わらぬ友情も、お互いの心の中に龍崎先生が生きていらっしゃるからでしょうか」。
原本記載写真
龍崎ヒサ先生は、横須賀市小矢部の大松寺に眠る。命日やお盆には、かつての同僚や教え子など多くの人たち のお参りが絶えない。写真は、お参りする教え子の皆さん。市外から駈け付ける人も=横須賀市久里浜5 ノ 9 =中川須美さん提供
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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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