横須賀市西浦賀町の常福寺。寺第二十九世の光誉上人基の隣に、江戸屋半五郎の墓がある。
墓石には「大誉果向深本心法子」、光誉上人とは師弟の間柄だつた。
半五郎は娼家(しょうか)=遊女屋)を経営していたが、世の無常を知り芸妓、娼婦を解放、
深本と名乗って諸国の霊場をめぐった。
半五郎は晩年、浦賀に戻り文化六年(1809)四月、念仏を唱えつつ、この世を去った、といわれる。
浦賀干鰯(ほしか)問屋で文才もあった樋口有柳の著「近世浦賀畸(き)人伝」 (文政十一年刊)に、
江戸屋半五郎は、こう描かれている。
「僧 深本、深本は俗称半五郎と云、わかかりし時、業を好み、任侠豪雄遠近に聞えけり、中年、
娼家(しょうか)を開いて奢侈(しゃし)尽くせざる所なし。
ひととせ東都に遊びて、しかるへき宿縁やありけん。貴僧の教化をえて、たちまち無常迅速のことはりを領会し、
歌妓娼婦等を己(おの)が様々にかへしけり。
立つらねたりし大厦(か)高楼、みな代かへて因みある人のかきり、俗の名残のかっけものとしなととのへて配り分
ち、身は唯、一衣一鉢の境界とおもひしめて出さりぬ。(中路)徳本行者の龍(こも)れる深山を踏分けて、
ひたすらに師弟の契りを祝き、此(この)時また深本とあらため、しはらく爰(ここ)に止りて、
又(また)ふる里にかへり来りー宇の草庵をむすひ、仏名を唱ふの外(ほか)他事なし。
かくて年をふるほとに、有時(あるとき)何となく相しれる家々を残りなくうち廻り、
己が庵にかへりぬ。其(そ)のまたの日正午とおほしき比はひ、念仏のこゑやみて眠るかことく命終りぬ。
厭離(えんり)得説のすみやかなる尤(もっとも)奇なりと云へし。則(すなわち)文化六年四月十九日、六十一歳」。
半五郎は、浦賀西岸の叶神社の手洗い石、東林寺登り口の六字名号碑、ここ常福寺に大乗妙典六十六部供養碑などを
残している。
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