浦賀港沿いから久里浜へ向かう坂を登りかかる。横須賀市西浦賀町二丁目。
左手の愛宕(あたご)山を背に常福寺がある。正しくは浄土宗は放光山、延寿院常福寺、という。
ここは浦賀奉行職の勤番交代(事務引き継ぎ)の式が行われた所。
幕府の御用寺院でもあり、明治維新の折は奉行所解散の行事も。
住職の国松俊雄さんにうかがった。約五百年の寺歴を誇る常福寺第三十六世として幅広くご活躍中。
「文明年間(1469〜86)に鎌倉にある浄土宗大本山、光明寺の第六世順挙了恵大僧正のお弟子、
圓蓮社教誉上人によって創建されました。文化七年(1810)の ”寺社奉行間合書”には
『寺席ノ儀ハ永聖席ニテ郡中二於イテ類門コレナク諸山別寺格二御座候』と記され、寺格も寺席も高く、
現在に至っております」。
当時の調書「常福寺常什物帳」によると、寺の規模は「本堂七間四面、閻魔(えんま)堂二間半に四間、
庫裡(くり)廊下五間、八畳間附、座敷床附十二畳壱間、同十五畳一間、同八畳壱間、茶之間外(ほか)二間半廊下壱棟、
住持寮八畳間、勝手六畳敷其(その)外板敷、右惣瓦屋根」だった。
ところが不幸にして明治十五年(一八1882)三月の火災で、仏堂閻魔堂のほかは焼失。
閻魔堂は関東大震災にも無事で現存。昭和四十六年に大修理が行われ、室町時代建築の本堂と江戸時代前期の建
築になる閻魔堂は寺の歴史にふさわしく、その輪奐(りんかん)の美を添えた。
境内には、奉行所与力の合原(ごうはら)雄左衛門、佐々倉安左衛門など一族をはじめ、
奉行所ゆかりの人々の墓が多い。遊女を解放し侠客義人ともいわれた江戸屋半五郎の墓もある。
また、この寺には山岡鉄舟や勝海舟など、幕末、維新の志士も訪れている。鉄舟は力強い書を残しているし、
海舟は一時、滞在している。なによりも庭園がすばらしい。
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