石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

彫刻師後藤利兵衛 @ 『多彩な古建築の妙』
原文

天保八年(1837)二月一日、横須賀市西浦賀町の浦賀西岸の叶(かのう)神社が焼失した。 その五年後、社殿は浦賀奉行や浦賀問屋衆の協力で再建された。経費はニ千八百両とも三千両ともい 社殿内外の彫刻は、後藤利兵衛義光の力作である。 利兵衛は、安房(あわ)の国(千葉県)朝夷(あさひな)郡北朝夷村(今の千倉町)の出身で、 文化十二年(1815)の生まれ、明治三十五年(1902)に八十八歳で没した。 江戸は京橋の彫刻師、後藤三次郎恒俊のもとで修業中、浦賀に来て彫り刻んだ。 天保十三年、二十八歳の時の作品。当時は利兵衛光定と称していた。 彫刻を紹介しよう。拝殿は入り母屋(もや)造りである。その正面には千鳥破風(はふ)、 軒は唐破風の向拝(ごはい)、彫刻は破風飾り「松と鶴」を刻んだ。 彫刻の用語は難しい。破風は、屋根の端につけた「へ」の字形の板、 向拝は、社殿や本堂の正面階段上に張り出した廂(ひさし)の部分をいう。 さて、向拝の柱木鼻前と側面には丸獅子(じし)、前面の虹梁(こうりょう)つまり、 やや反りをもたせて造った梁(はり)には「梅に鶯(うぐいす)」の浮き彫り、 (び)と呼ばれる廂には三匹の「子挽(びき)竜」を付けた。なお、側面左右の虹梁には 「菊花」の浮き彫り、その上には「玉取竜」も。 よく見ると向拝の天井には「二十八態の竜」が見事だ。拝殿正面の桁(けた)上の幕板には 「花鳥」の透かし彫りの装飾や蛙股(かえるまた)四枚を付け、板文輪には「松に丹頂」の彫刻がある。 幕板とは横に長い板のこと。蛙股とは古建築に多い彫刻のーつ、蛙が股を広げたような形のもので、 上の重みを受ける役をする。 拝殿の扉には五枚の折板戸を左右に付け、羽目板上部には左右六面に彫刻があり 「唐子の獅子舞」や「唐子と闘鶏」がすばらしい。
原本記載写真
横須賀市西浦賀町の西岸の叶神社には、今の千葉県千倉町出身の彫刻師、後藤利兵衛28歳の時の力作が残っている。 写真は、拝殿にみられる獅子の彫刻。天保13年(1842)の作という

彫刻師後藤利兵衛 A 『豪放な作風端的に』
原文

浦賀西岸の叶(かのう)神社の彫刻は、彫刻師後藤別兵衛の力作。 天保十三年(1842)の作である。彫刻を紹介しよう。 拝殿向拝(ごはい)正面の肘木(ひじき)左右には「笹と雀」を、側面前左右の肘木には 「枇杷(びわ)に木兎(みみずく)」、拝殿寄りの肘木には左右に「松に鷹」が刻まれている。 また、拝殿側面の貫(ぬき)には左右四つずつの「丸獅子(じし)」、蛙股(かえるまた)には四つの装飾蛙股、 板四輪彫刻には「松に丹頂鶴」四枚も。 拝殿内の格天井には七十二枚の彫刻を刻み、向拝の二十八枚を合わせると百枚になる。 その文様は透かし彫り、浮かし彫りだ。 本殿は、ひさしに手狭(てざま)を付け、「松に鷹」を左右に刻み、貫には左右側面に計十の「竜」を、 後方には「丸獅子」を四つ、左右側面にも四つの装飾蛙股を。本殿切妻虹梁(こうりょう)上には「力士」一つずつを付け、 本殿腰組は三斗の出組となつている。柱には「丸獅子」が十一も。 この叶神社の彫刻の配置と取り付けは、のちに千葉県館山市の鶴ケ谷八幡神社にもみられ、 両神社は利兵衛の作品の〃姉妹社〃といわれる。 ー後藤利兵衛は以後、修業をかねて京都東山の智積院や鞍馬(くらま)寺の扁額(へんがく)を刻んだ。 利兵衛は故郷、今の千葉県千倉町に戻って来た。 ちょうど安政大地震の直後、神社や寺の復興の時期に当たった。房総半島各地に力作を残した。 十四歳からハ十八歳までの七十四年間、彫刻一筋に生き抜いた。 叶神社の作品は、若い独立心に燃えていたころのものだけに、もっとも気迫がこもり、豪放な作風が見事に現れている、 といわれる。 館山市長須賀の来福寺に刺兵衛の門人や友人が集まり、碑を建てて米寿を祝ったが、その年のうちに没した。 明治三十五年(1902)のことだった。墓は、千倉町寺庭の西養寺にある。横須賀市浦賀公民館では、 昭和五十年十月に「彫刻師後藤利兵衛の名作パネル写真展」を開催した。
原本記載写真
明治35年(1902)に門人や友人が米寿を祝ったが、その年に惜しまれて亡くなった。 写真は、横須賀市西浦賀町、西岸の叶神社に残る豪放な作風がにじむ作品の一部

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