石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
浦賀西岸の叶神社 @ 『源氏の再興を祈願』 |
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鳥居越しに師走の海が光る。ここは横須賀市西浦賀町の浦賀西岸の叶(かのう)神社。 長い間 ”西叶神社”とも呼ばれ親しまれてきた。 養和元年(1181)に文覚(もんがく)上人が山城の国(京都府)石清水(いわしみず)八幡宮から勧請した、という。 上人は治承年間(1177〜81)、上総(かずさ)の国(千葉県)鹿野(かのう)山で、はるかに石清水に向かい源氏再興を祈願。 「再興が叶えられるなら適地を求めハ幡の社を建て、末長く祭らん」と誓いをたてた。 養和元年に、源氏再興のきざしを感じたので各地を回った末、この地に創建した。 五年後の文治二年(1186)、大願が叶いたるにより「叶大明神」と称し、明治維新後は「叶神社」に。 祭神は、応神天皇(誉田別尊=ほむたわけのみこと)、神功皇后(息長足姫尊=おきなたらしひめのみこと)、比売大神(ひめおかかみ)。 享保六年(1721)に浦賀奉行所が設けられると代々の奉行が参詣。寛政五年(1793)、時の奉行、仙石次左衛門政寅は神社の由来を調べ、 それを自ら扁額に記して奉納した。 その「浦賀奉行仙石政寅奉額文」は縦九十一a、横三・六bの桐製である。 御神宝や貴重品が多い。神社創建の時、文覚上人が奉納した直径二十四aの銅製の鏡。 次いで、円満院宮祐常御門跡による扁額。木製で縦約一b、横七十六aのもの。 御門跡は、天台宗寺門派本山の園城寺(三井寺)の中で格式が高かった。 当時の氏子(うじこ)釜屋平兵衛と、その知人、夏見玄内の骨折りで貴重な御染筆を得た、という。 また、明治十六年(1883)にー品有栖川官職仁親王の御染筆も。その扁額は縦九十一a、横四十九aの絹地だつた。 神社は、昭和五十六年に創建八百年を迎えた。地域の人々の信仰の厚さと底力に支えられてきた歩みは「浦賀西岸ー叶神社」(昭和五十六年刊)に詳しい。 |
源氏再興を願った文覚上人が創建した浦賀西岸の叶神社は ”西叶神社”とも呼ばれ、人々に親しまれてきた。 写真は、境内に江戸時代の石灯ろうなどが残っている同神社。振り向いてみると鳥居を通した海面が光る |
浦賀西岸の叶神社 A 『氏子は18ヵ町内に』 |
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横須賀市西浦賀町。浦賀西岸の叶(かのう)神社を訪ねる。大鳥居わきの社号標には「郷土叶神社。」 書は時の明治神宮宮司、海軍大将有馬良橘(りょうきつ)。 左側は社格昇格記念の大灯ろう。昭和十二年に建立した。右手に道標二つ。 「従是(これより)河岸五間」「従是河岸石垣迄六間」などとある。 宮下通りから石段を登ると、左右に寛延二年(1749)の灯ろう。 川村屋弥惣兵衛と尼屋喜太郎が願主。尼屋は幕末、大黒屋儀兵衛や紀伊国屋六兵衛とともに 浦賀問屋の代表的な商人だった。右すみの手洗い石は江戸屋半五郎が贈ったもの。 「近世浦賀畸(き)人伝」(文政十一年刊)に載る人。 奥の石段下には立派な銅製の灯ろうがある。贈り主は妓楼(ぎろう=遊女屋)の旦那(だんな)衆とか。 石段を登る。灯ろうは宝暦五年(1755)、こま犬は天明六年(1786)寄進。 社殿左手には、昭洞香山君碑と藤堂良道書碑が並ぶ。香山君とは奉行所与力の昭洞香山栄左衛門永孝のこと。 ペリー来航の時、中島三郎助と応対を務めた。社務所前には明治天皇駐輦(ひつ)の碑も。 ここは明治十四年(1881)五月、観音崎砲台へお越しの明治天皇が休憩された所。 当時、西岸学校のニ階建て校舎があつた。また社殿右奥には三社遥拝所(ようはいじょ)などがあり 〃文覚(もんがく)畑〃 が近い。 宮司の感見武さんにうかがった。「社殿の菊の紋ですか。本来、神社の紋は『菊葉』といい、 菊につぽみのついた葉をあしらったものです。江戸時代に簡略化され菊だけになりました。 まあ、明治以後の菊の紋章への感覚とは違っていましたので使わせていただいております。 東岸の叶神社さん同様に、みこしにも付いています」 氏子の筆頭総代で、神社の近くにお住まいの加藤勇さんは「氏子の皆さんは十ハヵ町内に及びます。 除夜の鐘の事前、初もうでのために約二千人の方が参道でお待ちになるのですよ。 団地の皆さん方からもお力添いいただいています」と語られる。 |
浦賀港沿いの大鳥居や道標をはじめ、”西叶神社”の境内には貴重な文化財が多い。写真は、 現在の社務所で、かつて西岸学校が建ち、観音崎砲台へお越しになった明治天皇が休憩なさった所 |
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