石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

海軍対潜学校 『連合軍驚嘆の技術』
原文
横須賀市長瀬。久里浜少年院や刑務所の敷地にあった海軍機雷学校は、昭和十九年三月、対潜学校と改称された。 水中測的教育が完全に独立、その重要性が終戦一年前にして認められたのである。 水中測的とは「水中測的兵器ヲ以テ、目標ノ方向、距離、針路、速力及ピ目標ノ種類ヲ測定、又ハ判定スルヲ語(イ)フ」 と「水中測的教範」にある。 教育課程は普通科、高等科、特修科の各練習生と、特修科学生の四コースがあった。 普通科練習生は精神訓育、中学三年程度の普通学、音感教育、水測理論、兵器構造学や取扱法、機雷術、力ツター、陸戦などを学んだ。 特修科学生は水測理論、兵器学、水測指揮法、卒業論文などを。 巣立ったつわものどもは艦船や各防備隊の防備衛所に勤務した。 横須賀防備隊の防備衛所は、三浦半島では鴨居の鳥ケ崎、剣崎、房総半島では小浜、洲の崎、鳥砥倉の五カ所。 そのーつ鳥ケ崎は、九七式聴音機八基を持ち、海中に九二式機雷十九群連を敷設した。 爆薬五百`六個をー群連と呼んだ。 対潜学校は、昭和二十年五月に教育を中止、本土決戦に備え全員、久里浜第一警備隊となった。  関係者によつて「海軍水測史」(昭和五十九年四月刊)が世に出た。たんなる回想録ではない。 その辺を刊行会長の山崎文夫さん(七五)にうかがった。 対潜学校教官兼分隊長を経て海軍省軍務局員を務め、戦後は連合軍戦略爆撃調査委員会の尋問に応じた方。 横須賀市大津町にお住まい、画歴六十年、とおっしゃる。 「海軍の水測兵器は現在にも生きています。魚群の探知、海洋資源の開発、地震予知、医療機器の改良などに。 それらの基盤となった水測兵器を正確に後世に残そう、というのが刊行の趣旨でした。 対潜学校ですが、海軍切っての民主的な学園でしたね。日本の水測兵器については、連合軍の調査団は驚嘆していました。 でも『その教育はニ、三年は遅れていた。特に幹部の教育は・・・』といわれました」。 水中測的兵器は現在の魚群の探知、海洋資源の開発、地震予知などの基盤となった、と

原本記載写真
戦時中の水中測的兵器は、現在の魚群の探知をはじめ、海洋資源の開発、地震予知などの基盤になったという。 写真は、横須賀市長瀬の久里浜少年院である。ここに水測兵器を扱った海軍対潜学校があった

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