石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

海軍機雷学校 『通算7年間で終戦』
原文
海軍工作学校に次いで海軍機雷学校の設立準備委員を務めた重田稔さん(73)にお話をうかがう。 横須賀市汐入町にお住まい。 「機雷学校は田浦町にあつた水雷学校から独立して昭和十六年四月に開校しました。 場所は、今の横須賀市長瀬、久里浜港の浦賀寄りの突端、久里浜少年院の所でした。 私は工作科でしたから建物の監督や管理、器具の整備を担当しました。 開校後は、学校の定員として残り十八年五月まで工作科分隊におりました」 機雷は機械水雷の略で水中に置き、艦船が触れると爆発、これを沈める仕掛けのもの。 「機雷学校が発足した時、だれかが『海軍嫌(きら)い学校』というあだ名をつけた。 海軍を嫌いな人が行く学校だというわけだ」との話が残る。 戦局、我に利あらず。昭和十九年三月、校名が海軍対潜学校と改称され、対潜水艦戦や船団護衛の特訓が続けられた。 十四、五歳の少年水測兵が約千人も在学。教壇には耳鼻科、魚類、絶対音感などの専門家が立った。 中には東京帝大教授や著名なピアニストも。 少年水測兵のほかに中学校出身者が特別幹部練習生として入校、七つボタンの制服を着た。 ともあれ開校以来五年、対潜学校となってニ年で終戦を迎えた。  機雷学校の校歌は海軍切っての詩人、海軍大佐松島慶三の作詞による。
海軍機雷学校校歌
一、潮(うしお)高鳴る
太平洋
砕けて散るや千代ケ崎
ここ久里浜の程近く
聳(そび)へて立てり
我が校舎
二、科学の粋を究めつつ
燃ゆる伝統
身に亨(う)けて
機雷兵器の蘊奥(うんおう)を
啓(ひら)くは
己(おの)が重任ぞ


原本記載写真
「潮高鳴る太平洋 砕けて散るや千代ヶ崎 ここ久里浜の程近く・・・」 の校歌が響いた 海軍機雷学校は、のちに対潜学校と改称。写真は、勇壮な相撲大会。学校跡には今、久里浜少年院などが建つ

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