石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
海軍工作学校 @ 『修理に腕を振るう』 |
---|
海軍工作関係の教育機関は 海軍機関学校や海軍工機学校を経て昭和十六年四月、 横須賀市久里浜に海軍工作学校として開設された。敷地は約六万坪(約二十万平方b)、 今の横須賀市立商業高校をはじめ、学校や市行政施設が建ち並ぶー帯である。 工作学校は、工作科指揮官の養成、下士官兵の練習生教育を行う所で校内は工作機械がぎっしり。 さながら大工場だった。ここを巣立ったつわものどもは、艦船や兵器などの修理で、特に腕を振るった、という。 工作学校の設立準備委員の一人だった、市内汐入町にお住まいの重田稔さん(73)にお話をうかがった。 「横須賀海兵団から準備委員として久里浜の仮兵舎へ派遣されました。昭和十五年九月から半年間でした。 委員は工作科を中心に約二十人、委員長は当時、海兵団の第六分隊長の尾崎特務大尉。 工作科の分隊です。私は木工でしたから現場の監督、教材の購入を受け持ちました。 そうねえ、工作科は木工と金工に分かれていた。木工は木具、金工は板金、鍛冶(かじ)、鋼鉄、仕上、熔接、鋳物、 機械の専修がありました。別に潜水は、工作科全員がー応、身につけました。軍艦から海中へ物を落とした、 練習用魚雷が浮き上がらずに沈んでしまった、スクリューが故障した、といった時などは工作兵が潜水作業をしますので。 まだ工機学校時代でしたが、敷地内の三笠公園寄りに潜水練習用のタンクがありました。直径十b、 高さ十二bでしたか。指導教官は、のぞき窓から練習ぶりを見ていて、息の抜き方や作業の仕方を電話で注意したものです」。 当時、工機学校は画期的な研究をしていた、という。例を挙げると、水中写真撮影、艦船の補修に欠かせない水中切断や水中熔接など。 これら研究の成果は戦後、民間の企業に引き継がれた、といわれる。 |
太平洋戦争開戦まぎわに、海軍工作学校が横須賀市久里浜に開設された。 写真は、当時の校舎。広大な敷地には今、市立の商業高校、工業高校、久里浜小、明浜小などが立ち並んでいる |
海軍工作学校 A 『潜水に猛訓練積む』 |
---|
横須賀市久里浜にあつた海軍工作学校の設立準備委員、重田稔さん(73)のお話は続く。 「駆逐艦ぐらいでは工作兵は一人配置でしたからー応は全部、身につけておかないと・・・。 私は木工の木具専修ですが、潜水は猛訓練でしたね。猿島周辺でもよくやりました。 一日、てんま船に分乗、米や副食まで携帯して出かけ船上で炊事。それが楽しみでした。 私ら『潜水履歴』というのを持ち、潜水訓練のたびに記入したものです。 訓練の内容は海底歩行法をはじめ、海底捜索法、深度潜水法、海中捜索法、鋼線網切断法、 推進器(スクリュー)検査などでした。潜水深度は四十五bが最高だったでしょうか」。 重田さんは「工作兵は縁の下の力持ち。私は続いて機雷学校の設立準備も受け持った」と語られる。 太平洋戦争で戦死した工作学校卒業生は五千百二十五人。その名簿は、学校跡のー角、 今の横須賀市立工業高校近くの市久里浜公園に建てた記念碑の台座下に納められた。 ステンレス製のカプセルには「般若心経」が彫られてある。記念碑の表面には「海軍工作学校跡」とある。 書は、終戦時の学校長、海軍少将美原泰三による。 碑の除幕式は、昭和五十二年五月二十二日に行われた。建設の趣旨は、記念誌「想起之年」(昭和五十二年刊)によると次の通り。 「…今此(こ)の母校跡に記念の碑を建設し謹しんで海軍工作科関係戦没英霊の御冥福を祈るとともに此の地を訪れる卒業生、 遺族並びに関係の皆様が当時を偲(しの)ぶよすがとし永くその業績を称(たた)えたいと念願するものであります」。 付け加えよう。江田島の旧海軍兵学校の参考館わきに残る特攻兵器「海竜」は、工作学校で試作された。 前例のない翼を持つ潜水艇。小型で量産できる”水中の飛行機”と呼ばれた傑作だった、といわれた。 |
海軍工作学校は、さながら大工場だった。工作科は縁の下の力持ち。戦死した卒業生は5,125人という。 写真は、かつての敷地のー角、久里浜公園に建つ記念碑。除幕式は、昭和52年5月に行われた |
寄稿・補稿欄 |
---|
参考文献・資料/リンク |
---|
皆様からの声 |
---|
ご意見・ご感想をお寄せ下さい |
---|