京急浦賀駅から浦賀警察署に向かって三百bほど歩くと、左手に住友重機浦賀工場の材料門が見える。
その奥に「浦賀屯営の碑」がある。
この碑は、昭和十年三月に建立されたもので、表は「浦賀屯営跡」と、当時の永野修身(おさみ)海軍大将が書いた。
裏には浦賀船渠(ドック)社長、のちの逓信大臣、寺島健海軍中将によって書かれた碑文がある。
碑の礎石は花岡(こう)岩で、日露戦争の時、旅順港内の敵艦を封じ込めるため、海中に沈めた石の残り。
同社川間工場で解体した弥彦丸から取り出したもの、という。
碑文には、屯営は「明治八年に設けられた」とあるが、同六年(1873)の誤りだ、といわれている。
屯営は、八年に「浦賀水兵屯集所」と改称。
十年に逸見村、今の横須賀駅裏側に東海水兵本営が新設されると浦賀は、分営となった。
その後はー時、「浦賀水兵練習所」と改称、十八年に、再び浦賀屯営となった。
「海軍七十年談」によると「病気などで海上勤務に適さない期間は、定員外となり”屯営入り”した。
『屯営や生きた士官の捨て所』とうたわれた」とある。
二十二年四月に逸見村の本営が横須賀海兵団となると、浦賀屯営は廃止。
この海兵団については、「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)に、「汽車、田浦駅を出で将(まさ)に横須賀駅に着せんとする時に、
旅客は車窓より広闊(かつ)なー郭に事業服を着たる兵士の奔走し、又は練兵するのを見るであろう。これ即ち海兵団である」と書かれている。
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