石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
海軍砲術学校 『語り草の精神教育』 |
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横須賀市楠ケ浦。今の米海軍基地内である。長さ約二百bのトンネルが、海軍砲術学校の校門だつた。
「力強い軍靴(か)の響きがこだまして冷やつとした風も吹き、身も心も清められて神聖な道場に入る心境であり、
我々はこれを『軍紀、風紀の風が吹く』と呼んだ」と記録に残る。
砲術教育は、明治三年(1870)、イギリスの海軍大尉ホーズが指導したのが始まり。
四十年四月に、海軍砲術学校条例が制定された。
広い校庭にー段と高い号令台、マストにひるがえる大軍艦旗、海岸沿いにニつの砲台…。
一貫して ”巨艦巨砲主義” の日本海軍にとつて、砲術学校は海軍諸教育機関のメッカだった、とか。
砲を操作する技術教育とはいえ、海軍特有の精神教育は今も語り草に。
特に、銃剣術は名物だった。
学校では、士官を学生と呼び高等科、特修科、専攻科の三科、准士官以下を練習生と呼び高等科、
普通科、特修科の三科に分かれていた。
昭和十六年六月に千葉県に館山(たてやま)海軍砲術学校が開設したため、楠ケ補のほうは、横須賀海軍砲術学校と改称された。
十九年四月には、予備学生教育として市内長井町に分校も。
七月には本土決戦に備え、学校は、横須賀第一警備隊となつて終戦を迎えた。
砲術学校の校歌は、次の通り。 海軍砲術学校校歌 一、帝都の海の守りなる 三つの海保前に見て その名もかおる楠ケ補 勝力崎に寄る波の 帆に洗われて堂々と 並び立つなるわが兵舎 二、皇国を守るつわものの 多き中より選ばれし その栄ここに集まりて 心を養い技を練り わが海軍の光をば そそし勲(いさお)の 如何(いくばく)ぞ |
明治以来い巨艦巨砲主義いの日本海軍にとって、砲術学校は教育諸機関のメッカだったという。 横須賀市楠ケ浦、約200bのトンネルが校門を兼ねていた。写真は、分列行進 |
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