短い日あしも傾いて、夕がらすもねぐらに帰る冬のある日。三浦半島を巡っていた弘法大師は、
かすかに照らすともし火を目当てに岩屋にたどり着いた。そこには十歳ほどの男の子が、やせ衰えた父を看病しながら、
わらじを作っていた。
子供は思いがけない大師の姿に驚きながらも、訪れる人とてもないこの生活に、喜んでもてなし、盛んに火をたいたり焼き芋をすすめたりした。
大師に問われるままに、子供はこう語った。
「父は郡司の館(やかた)に仕えていたが、いつしか人にも世にも捨てられて家も財産も売り払い、わらじを売つては、わずかに露命をつなぎ病気の父を見守っています」と。
これを聞いた弘法大師は不びんに思い、さっそく傍らの岩に地蔵尊の像をきざみ、もしからだの痛みがあるならば、この像に灯火をあげてー心こめて祈るのだ。
そうすれば痛むところが像に移って「いぽ」となって現れる。その「いぼ」をなぜた指で、自分のからだの痛むところをなぜれぼ、その苦痛は立ちどころになおる、と教えた。
これが、横須賀市大矢部町、深谷の円通寺にあった「いぽ地蔵」である。
円通寺が廃寺となったので昭和十三年八月、同じ大矢部町の清雲寺に移された。
「いぽ地蔵」は別に「あざ地蔵」とも呼ばれたが、今は姿が見当たらない。
円通寺については「三浦古尋録」(文化九年刊)に「是(コレ)ハ三浦長門守為通(タメミチ)ノ関基二テ比日ハ寺有リシ力其(ソノ)後、
大破二及ヒ今ハ寺ナク深谷山ノ廟所ノミ残ル・・・」とある。
昭和十四年に清雲寺の南一帯が海軍火薬庫の敷地になったので、墓などが清雲寺に移された。この時、為通とその孫、
義継(太介義明の父)の墓と伝えられるニつの五輪塔を、清雲寺の為継の左右に移した。円通寺跡には、今なお多くのやぐらが残るが、
海上自衛隊が管理している。
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