横須賀市西浦賀町五丁目の浦賀奉行所跡に建つ住友重機械KK、川間住宅わきを入る。
静かなたたずまいの奥に寿光院がある。奉行所に最も近い寺だけに与力や同心と呼ばれた役人の墓がある。
それに幕末、威臨(かんりん)丸の教授方(航海士)であった浜口与右衛門英幹や、会津藩の美都(みつ)姫の墓も。
浜口は万延一九年(1860)、日米修好通商条約の批准交換のために、木村摂津守や勝海舟ら九十六人とともに渡米した。
辞世の句は「雪や月 花を友なる ひとりたび」。美都姫は文化七年(1810)、幕府の命令で沿岸防備のために浦賀に来た会津藩士の家族。
身分の高い人といわれ、浦賀で亡くなった。
境内に「三命地蔵」またの名を「首切り地蔵」と呼ばれる地蔵尊がある。幕末の元治元年(1864)、伊豆から弁天丸という船が浦賀港へ入ってきた。
その船に松五郎、岩吉、忠蔵という三人の水夫が乗っていた。浦賀で遊ぶ資金かない。
そこで船の錨(いかり)綱を盗んでは売り、夜遊びにふけった。
いつまでも悪事は続くものではない。浦賀奉行所に捕まった。三人は裁判で船の錨綱を盗んだことを白状、
「命の綱を盗みました」と申し述べた。「命は人命である」との奉行の解釈によって、灯明堂わきの刑場で処刑されることになった。
松五郎ら三人は、国へ帰ることができないことを悲しみ「この土地で私たち三人をねんごろに葬ってくれるなら、首から上の病はなんでも治してあげよう」といつて刑場の露と消えた、という。
願い通り船主、師崎(もろさき)屋によつて寿光院に手厚く葬られた。
以後、首から上の病は、なんでも治るといううわさが広まり、頭痛から眼病、耳や鼻の病気、歯の痛みに悩む人々のお参りが絶えなかった。
墓には「弁天丸水主、良順信士 松五郎、頓道信士 岩吉、戒音 忠蔵」、また「元治元子(ね)年三月廿一日」と記してある。
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