「なにがなんだか、わからないまま、 東京へ行きました。
じつは、二・二六事件でした」と、思い出を語るのは、横須賀市汐入町にお住まいの米村喜義(きよし)さん(72)。
北海道生まれで、昭和八年に横須賀海兵団に入団。その後、「比叡」「高雄」を経て、九年に海軍砲術学校へ入校。
卒業後、同校に定員、つまり、勤務員として残る。お話は続く。
「昭和十一年二月こ十六日でした。半舷上陸でへ私は居残り組、当直中でした。
突然、『マーク持ちは脚半を巻き、外套(とう)を持って本部前に集合』と命令。
すると、『鎮守府へ行け』といわれた。行きましたら、出てきた副官は、こういうのです。
『七時発の横須賀線を持たせてあるので、すぐ駅へ!』『新橋に着いたら、海軍省の車が待っている』。
私らは九人。下士官一人、水兵八人です。私は一等水兵でした」
横浜駅着、私服の憲兵が窓越しに、「どこへ行くのか」。
米村さんは、腕をつかまれた。「こっちが、聞きたいくらいなので、黙つていた」と、おつしやる。
お話は、はずむ。
「新橋に着き、海軍省差し回しの黒塗りニ台に分乗。本省へ向かつた。
沿道には、数bおきに陸軍兵が立っていました。『なにかあったのですかと、運転手に聞きましたら、
『大変ですよ、陸軍さんが大臣を殺したんですという返事。海軍省に着いたらい『そのかっこうはなんだ』と
副官にどなられ、『機関銃が組み立てられるか』と、きました。
マーク持ちですから、簡単なことです。倉庫から銃を取り出し、保存用の油を取り除き、組み立てたのです。
その夜は、海軍関係の皇族や、大臣などの出入りを護衛しました」
翌二十七日、正規の陸戦隊が到着すると、九人はお役ご免。以下は、米村さんの後日談。
陸戦隊に加わり、日露戦争で名高いニ百三高地で訓練。次いで、窮地に陥る上海駐屯の陸戦隊の救出に向かった。
指揮するは、竹下宣豊海軍少佐。白ダスキの竹下部隊であった。
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