石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


学制@ 『施行時に24校発足』
原文

江戸時代の三浦半島は幕府の天領(直轄地)である。 そのため藩領地、たとえば、水戸藩にみられたような藩学は存在しなかった。 各地には、寺子屋や私塾はあったが、明治になると佐島村、大津村、浦賀村の東岸と西岸の四カ所に公的性格を待った 郷(ごう)学校が誕生した。 明治五年(1872)には「学制」がしかれ、小学校の発足をみたが、当初は、「学舎」と呼ばれ、その数は、次のニ十四である。 明治五年ー稲岡学舎(横須賀村永島家)、公郷学舎(浄蓮寺)、長井学舎(長井・不断寺)、大久保学舎(長井・端庵寺)の四つ。 六年ー不入斗学舎(西来寺)、逸見学舎(浄土寺)、走水学舎(覚栄寺)、鴨居学舎(西徳寺)、金谷学舎(大明寺)、大矢部学舎(清雲寺)、八幡久里浜学舎(八幡神社神宮大井家)、秋谷学舎、芦名学舎、 長坂学舎、本浦学舎(雷神社>、南浦学舎(正観寺)など十三。 七年ー野比学舎(最宝寺)、長沢学舎(法善寺)、武学舎(東漸寺)、林学舎(林照寺)、長浦学舎(常光寺)、田浦学舎(長善寺)、本浦学舎(自得寺)の七つ。 男子は筒そで、女子は長そでの着物で髪は桃割れなどを結った。 明治六年六月に制定された「神奈川県小学教則」によると、当時の学校は下等(六歳から九歳)と上等(十歳から十三歳)に分けられ、下等四年間が義務教育。 上・下等ともハ級からー級まであり、六カ月ごとの進級試験に含格すると、昇級できた。 また、卒業試験は「大試験」と称して、県から学事関係者が来校して厳格な判定をした。 その結果は、県公報で「××小学校で○名が落第」と報じている。
原本記載写真
明治5年(1872)に「学制」がしかれ、三浦半島にも小学校が発足。 はじめは「学舎」と呼ばれ、その数は24あった。 写真は、学舎のあった不断寺=横須賀市長井町。 本格的な子供たちへの教育が始まった。

学制A 『4年間の義務教育』
原文

当時の教科書は、読本一冊だけ。 たとえば、今の四年生用に当たる「小学読本巻四」(明治七年刊)で、地動説の解説を、「運動スル地球ハ静ナル如クニシテ、静ナル太陽ハ運動スルガ如ク見エル者ハ何ゾヤ」と書き出している。 ここで「創立百年誌おおつ」(昭和五十二年刊)から、当時の作文を紹介しよう。 大津小学校開校の ”祝文”である。 「本校 開業祝文 夫レ学ハ文運開明 富国強兵ノ基礎 一日モ之レ無クシハ有ル可ラス 故ニ方今 朝廷盛ニ全国ニ学校ヲ建設セラル 慈ニ我学校ノ如キ其功成り 本月本日ヲ以テ開校ス 添クモ 県官此座ニ就キ此偉曲ヲ行ハル 実ニ欣喜ノ至ナラスヤ 故ニ余輩不肖ヲ不顧(カエリミズ)卑語(ヒゴ)ヲ以テ祝詞ニ換フ 本校第一級生徒 由井勘蔵 明治十年五月二十八日」 汐入小学校の場合 明治五年(1872)の学制で、稲岡町二十四番地の永島政徳家に稲岡学舎が誕生。 正しくは、第一大学区第十中学区第六十二号稲岡学舎と称し、児童は四十三人。 八年、校名が横須賀学校となり、汐留二十四番地に完成した洋風の校舎が、話題になつた。 十二年、教育令とともに公立横須賀学校、十八年には横須賀町立横須賀小学校と改称された。 二十二年に焼け、谷岡一番地に校舎が完成した。 現在の所である。二年後には尋常高等横須賀小学校、三十三年には第ー尋常高等横須賀小学校と改称。 そのころ分教場は諏訪(今のヨゼフ病院の所)、谷岡(本校の隣)、八幡山(今の緑ケ丘学院の所)の三カ所あった。 これらが三十五年と四十一年のニ度にわたって、次のように変わっていった。 尋常第一横須賀小学校(男子)が尋常諏訪小学校に、尋常第二(女子)が尋常汐入小に、高等第一横須賀小学校(男子)が高等八幡山小学校に、高等第二(女子)はー時廃止されたが、 尋常谷岡小として復活、大正四年(1915)に尋常汐入小に併合。 同十二年、尋常汐入小は汐入尋常小学校と改称された。 めまぐろしい変化である。
原本記載写真
明治5年(1872)の学制で誕生した、稲岡学舎は、第一大学区第10中学区第62号、稲岡学舎と呼ばれた。 写真は、市立汐入尋常小学校の上棟式(昭和2年)=逗子市沼間、小林和美さん提供

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