石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

二宮金次郎 @ 『「勤倹力行」の象徴』
原文

「しばかり なわない
  わらじをつくり
親の手をすけ
おとうとをせわし
きょうだい なかよく
孝行 つくす
手本はニ宮金次郎」
これは戦前の文部省唱歌である。かつては横須賀市内の小学校、それも校門わきにニ宮金次郎(尊徳)の銅像が建っていた。 なぜ金次郎だったのか・・・。  昭和九年七月、鎌倉市雪ノ下の神奈川師範学校(今の横浜国大教育学部の前身)附属小学校で、二宮金次郎の銅像除幕式が行われた。 附属小では、校内に郷土教育研究会とともにニ宮尊徳先生研究会を設け「二宮尊徳先年ノ生涯及ピ忠想ノ研究」に励んだ。 その実践のーつとして銅像が年まれた。 建設の趣旨は、「神奈川県師範学校創立六十周年記念誌」に、「二宮金次郎尊徳先生は我が郷土の生める日本的偉人にして 其(そ)の生涯と思想の中に龍(こも)れる至誠報徳の教へは教育上、万古の模範と確信致し候。特に現代の我が国状をみるに、 まさに非常の秋(とき)今や先生の如き自力更生、勤労奉仕、至誠報徳等の精神を振作するは教育上、最も緊要と存じ候。ここに先生の銅像を建設(後略)・・・」とある。 薪(たきぎ)を背負って歩みながら本を読む少年、金次郎の像は「勤倹力行」の象徴として附属小の校門わきに登場した次第。 以後、県下の各小学校へ普及し始めた。  ちなみに、二宮金次郎は尊徳ともいい、天明七年(1787)七月に足柄上郡栢山村(今の小田原市)の農家に生まれた。 酒勾(さかわ)川沿いの荒地の開拓や副業の開発、備畜と得た資金の有効な運用に務めた。 金次郎が学んだ「大学」「実語教」「手本」などは、今、小田原市尊徳記念館で展示中。 「実語教」には「二宮金次郎」の署名も。 小田原藩の家老職、服部家の再興に尽し、のちに幕府に仕えた彼の施策は、相模、常陸(ひたち)など十一カ国に及んだ、という。
原本記載写真
戦前、二宮金次郎の銅像は神奈川師範学校付属小学校から始まったという。写真は、横須賀市立諏訪小学校の銅像除幕式で配られたもの。 台座には「至誠 小泉又次郎書」とある。どこの学校も、銅像は正門近くにあった

二宮金次郎 A 『銅像を撤収し献上』
原文

横須賀市立逸見小学校の場合、二宮金次郎の銅像除幕式は昭和十一年十月二十五日に行われた。 台座の「よい日本人になれ」の文字は、当時の小田原の県社、報徳二宮神社の草山淳造社司の筆による。 台座の裏には、こう記された。 「職ヲ本校二奉シテ二十有九年、世二送り出セシ卒業生マタ夥(オビタダ)シ而(シ力)モ社会ノ諸方面二ソノ地歩ヲ 定メテ活躍、発展シツツアルハ余ノ欣快措(オ)ク能(アタ)ハザルトコロナリ。 頃(コロ)日ソノ先輩数氏来り『師ヲ懐(ナツカシ)ミ母校ヲ想フノ情ハ年ト共二切ナルモノアリ。 コノ至情ヲ顕現シ且(カツ)ハ児童教育資料トモナルベキ記念事業ヲ企テタシ方策、如何』ト余、 欣(ヨロコ)ビテ郷土偉人、二宮尊徳先生銅像建設ノコトヲ提唱スル(中路)、熱烈ナル愛校心ハヤガテ総額四百五十余円 ヲ醵(アツ)メ、コノ一大事業ヲ完成セシムル二到レリ(後略)。昭和十一年七月二十三日 尊徳先生生誕百五十年記念ノ 日 神奈川県横須賀市逸見尋常高等小学校長 従七位 中村亨三 誌」 上やがて戦争。金属回収運動が始まった。銅像は戦争に供出された。台座の上には代わりに石像の二宮金次郎が建った。 再建の除幕式は、昭和十七年七月七日だった。 供出といえば、田戸小学校では「二宮尊徳像供出(昭十九、二、十九」、汐入小学校では「二宮先生銅像を撤収し国に 献上」と記録に残る。 大津小学校の陽台は「創立百年誌おおつ」(昭和五十二年刊)に「昭和十一年二月十一日、児童の廃物集めの勤労によつ て二宮金次郎の銅像をたてました。場所は現在、講堂前、ロダンの『考える人』の像があるところで、その台座は今でも残 っています」とある。『考える人』は子供たちの卒業制作品だ。「ああ、この美しい町に育ち、わたしたちは けさも通う」 の校歌どおりの子供たちを、かつては二宮金次郎、今は『考える人』が見守る。
原本記載写真
二宮金次郎の銅像の多くは、戦争のために供出された。残ったものは戦後、姿を消した。 写真は、同じ台座に子供たちの卒業制作品、ロダンの「考える人」の像がおめみえした。 横須賀市立大津小学校で

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