石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

上の台遺跡 @ 『弥生、古墳の集落址』
原文

横須賀市鴨居二丁目。市立上の台中学校の敷地が鴨居上の台遺跡だった。昭和五十一年二月、市内の埋蔵文化財分布調査中に発見された遺跡である。 当時の報告には「種別ー遺物散布地、所在地鴨居上の台、地目 山林及び畑地、立地 台地全面、遺物 縄文式土器片(三戸式?)弥生式土器片(久ケ原式)、 土師(はじ)器片、黒曜石多数」とあった。 この土地は、既に中学校建設の予定地となつていた。横須賀市土地開発公社は、横須賀考古学会有志を中心とする鴨居上の台遺跡調査団に予備調査を委託した。 翌五十二年二月、幅二bのトレンチ(溝)をニ十bおきに掘り、遺跡のー端を調べた。 この結果を、調査団は市土地開発公社に、次の通り報告した。所見 本遺跡は縄文時代早期・中期、弥生時代中期 から古墳時代前期、および奈良時代の各時代・時期にわたって居住、利用された場所である。 本遺跡は台地上に広く占地し、その範囲は約八千平方b程度と思われる。・本遺跡の主体は弥生時代から古墳時代前期にかけての集落址であり、 住居址総数は百を超えるであろう。この集落址は、三浦半島東岸において最大規模のものと思われ、かつ保存状態は良好である。 (中路)結語 ・本遺跡はその性格と意義からすれば当然、保存されるべき性質の文化財であり、調査団はその保存を願う立場を放棄するわけにはいかない。 ・しかし、もし諸般の事情からその保存が不可能であるとすれば、十分な『記録保存』をまっとうしなければならない(後略)」。 この報告をもとに、横須賀市教育委員会と市土地開発公社は再協議の結果、市立鴨居中学校の大規模校を解消するには、上の台以外に新設校の適地がなく、 全面事前調査と記録保存やむなしの結論に至った、といわれる。
原本記載写真
横須賀市鴨居町2丁目の鴨居上の台遺跡は、昭和51年2月の埋蔵文化財分布調査で発見された。現在は、市立上の台中学校が建つ。 写真は、中央が上の台遺跡。右上が臨海団地や、かもめ団地

上の台遺跡 A 『発掘調査に11カ月』
原文

上の台は京急浦賀駅の東南約一・五`、土地の人は「ウェンデー」と呼ぶ標高四、五十bの台地である。 遺跡は南北約百五十b、東西五十bの広さだった。 横須賀市土地開発公社から委託を受けた鴨居上の台遺跡調査団は、教育施設の建設と文化財保護、自らの調査能力などについて熱心な討論を重ねた、という。 ちなみに、調査団長は市文化財専門審議会委員の赤星直忠博士が務められた。 本調査は昭和五十二年十月から五十三年九月まで行われた。同年十一月から資料整理に入り翌五十四年十二月に終わった。 発掘調査は十一カ月、資料整理は一年二カ月に及んだ訳だ。結果は「鴨居上の台遺跡=横須賀市文化財調査報告書第8集」(昭和五十六年刊)にまとめられた。 出土された土器のかけらは五万六千個以上、整理箱に四百四十箱。堅穴住居址は百四十一軒も発掘された。 縄文時代の遺物としては土器が三千五百七十八点、石器が四十七点も出土した。 縄文式土器の場合、かけらを集めて復元できるものはなかった、という。 土器は、@縄文と撚(より)糸文A押型文B無文C沈線文や貝殻文D貝殻条痕文E中期以降のもの、の六つに分けて整理された。 また、土器の底の部分が五十七点も。特徴は丸底のものは撚糸文系、乳房状の尖(せん)底は条痕文、厚みが変わらずにとがるものは、沈線文や貝殻文など。 石器で縄文時代のものと思われるのは四十七点。内訳は礫器十点、刃部磨製礫斧二点、石鏃十五点、石槍一点、削り器五点、加工痕のある剥片十点、その他。 礫器は、平らの小石の片方または両方を打ちかいて刃としたもの、刃部磨製礫斧は刃の部分を磨いた斧(おの)、石鏃は石のやじり、削り器は黒燿石製で横に長い。
原本記載写真
上の台遺跡の発掘調査は、昭和52年10月から翌年9月まで行われた。出土された土器片は5万6千個以上、住居址は141軒。 写真は、見事に日の目をみた住居址。柱の穴がはっきり見える

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