石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
長井町内原遺跡 @ 『存在知られたー角』 |
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霊峰富士が美しい相模湾沿いの横須賀市長井町。海辺の家並みの背後は厚い黒土が関東ローム層を覆う長井台地である。 ここは標高二十bの独立した台地。中心部には昔から「チョワヅ力」と呼ばれる塚がある。 台地の西半分は戦時中は海軍飛行場、今は米軍用地だ。北と西側は、古くから遺跡の存在で知られていた。 この辺りは字(あざ)内原なので長井町内原遺跡と呼ばれる。範囲は五万平方bにも及ぶ、とか。 そのー角に建つ横須賀市立長井小学校、長井中学校の数回にわたる校舎改築工事に伴う発掘調査が、昭和五十二年から五十五年にかけて行われた。 「横須賀市文化財調査報告書第9集=長井町内原遺跡」(昭和五十七年刊)によると、縄文時代早期に属する竪穴(たてあな)住居址(あと)と遺物包含層、 古墳時代前期から奈良、平安時代に及ぶ集落の跡が調査、確認された、という。 調査の結果は次の通り。 T第一次調査(昭和五十二年七月〜八月)A地区。長井小学校校舎改築工事の約七百平方材について調査。 古墳時代前期の竪穴住居址二軒、奈良時代のもの二軒を確認した。 T第二次調査(昭和五十三年七月〜八月)B地区。長井小学校体育館建設予定地の約六百平方bについて調査。 柱居址が十軒、確認されたが、そのうち古墳時代前期が七軒、力マドを持った奈良時代末から平安時代にかけてのものが三軒だった。 「第三次調査(昭和五十四年四月〜五月)C地区。長井小学校校舎増築に伴うもので、約五百平方bについて調査。 住居址と思われる落ちこみが九カ所、溝状のものーカ所の計十カ所が確認された。 「第四次調査(昭和五十四年七月〜八月)D地区。長井中学校校舎建設予定の約千平方bについて調査。 戦前は海軍施設があった所だが、さほど破壊されておらず、住居址六軒を確認した。 |
横須賀市長井町の台地は、古くから遺跡の存在で知られていた。そのー角が内原遺跡。 小・中学校の校舎改築のたびに発掘が行われた。写真は、A地区2号住居址の調査風景(昭和52年8月) |
長井町内原遺跡 A 『予想上回る遺構数』 |
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横須賀市立長井小学校、長井中学校の校舎改築工事に伴う発掘調査の結果を、前回に続いて紹介しよう。 ◆第五次調査(昭和五十五年六月〜七月)E地区。長井小学校校舎改築工事の約六百五十平方bについて調査。 遺構数が予想をはるかに上まわった。堅穴住居祉が十六軒、掘立建物址と思われるものニ軒を確認した。 堅穴住居址十六軒の内訳は古墳時代、五領期のもの七軒、鬼高期のものー軒、真間期以後のもの八軒である、という。 ◆ 「第六次調査(昭和五十五年七月〜九月)F地区。長井中学校校舎改築の計画地域、約二千平方bについて調査。 集落址については、古墳時代前期の堅穴住居址が十二軒、古墳時代後期以降の堅穴住居址が七軒、掘立建物址がー軒の計二十軒が確認された。 なお内原遺跡わきの小舞原遺跡は、農地天地返しで大半を失ったが、約三十力所の遺物、遺跡の痕跡が認められた、という。 発掘調査では、大小さまざまな収穫があった、という。一例をあげるとE、F地区での結果について調査団のー人、 市博物館の大塚真弘学芸員は「注目すべき遺構が出たのです」と前おきして、こう語る。 「集落の跡の下から縄文時代早期の無文土器を伴う擦痕(さっこん)文士器の包含層、そのまた下から無文士器を伴う堅穴住居址が出てきました。 この遺物包含層からは土器のほかに多数のやじりと石片、堅穴住居址からは石器がセットで見つかりました。 それに、土俵状の掘り形をもった住居址、火災による焼けてしまったと思われる住居址、入口部の壁が外側にふくれる住居址、玄関を備えたと思われる住居址など、注目すべき遺構がありました。 今後の研究課題だと思っています」。 |
最後の調査は、昭和55年7月から9月にかけて行われ、F地区で20軒の住居址が発見された。 地元の小・中学生や地域の人々が見学に来たり、発掘を手伝った。写真は、長井小児童の野外学習 |
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