横須賀市田戸台、かつての砲台山にあった縄文式早期、田戸遺跡の発見者、赤星直忠博士にうかがった。
「私は横須賀重砲兵連隊に入隊し、訓練のたびに砲台山へ通いました。大正十二年でしたか、小屋の裏で風をよけての昼食中、今まで見たこともない土器のかけらが目に止まりました。
訓練のたびに拾い、遺物の包含層も見つけました。
あの関東大震災で砲台が破壊、用地は払い下げとなりましたので、東京湾要塞司令部の許可を得て発堀しました。
土器は「田戸式土器」と命名したのです。当時は、土器に名称がついていませんでした。すべてアイヌ人の先祖のものとされていました。
皇室の尊厳をそこなうことになるから・・・。何千年前のものは発表禁止。今の縄文式土器に当たるものは全部、アイヌ式土器といわねばならなかった訳です。
土器は、アイヌ土器と称生式土器に大別されていました」。
調査の結果、田戸式土器には上下の層による違いがあるので上層式と下層式に分けられた。
ともに縄文式土器の標準土器のーつとされた。ほかに三浦半島で標準土器となつているのは諸磯(もろいそ)式、茅山式、三戸(みと)式、平坂式、
大浦山式、夏島式などの土器。学界にとって、三浦半島は貴重な地域である証拠でもある。
話を戻そう。田戸式土器の特徴は平行沈線式、貝殻式、条痕文、押型文の文様を持ち形は尖(せん)底、とがり底だ。
赤星博士は、昭和十年十二月に「史前学雑誌」で「横須賀市田戸先史時代遺跡調査報告」として報告された。
田戸遺跡は戦後、横浜地方裁判所横須賀支部など庁舎建設のために消滅した。出土品は今、横須賀市博物館で展示中。
高さ三十aの田戸上層式の丸底土器や、高さ十七aの下層式の尖底深鉢型土器などは、見事に復元されている。
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