石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

蓼原遺跡  @ 『琴ひく埴輪も出土』
原文

横須賀市神明町。京急久里浜駅下車、野比へ向かうしっこすり坂手前の神明小学校のー帯が蓼原(たではら)遺跡である。 かつての三浦郡久里浜村大字(あざ)八幡(やわた)小字蓼原。ここは横須賀市文化財専門審議会委員、赤星直忠博士 にとって忘れ難い遺跡のようである。遺跡から昭和の初めころ琴をひく埴輪(はにわ)のー部が発掘された。 当時の思い出を赤星博士は語られる。 「昭和六年でしたか、私が茅山貝塚を調査していましたら久里浜村の助役が『茅山と同じ土器の破片が出た』というので見に行きました。 それは埴輪のかけらでした。地主に交渉して掘らしてもらいました。 発掘の費用は自弁です。そこは、ごぼう畑、面積は教室一つ分の広さでしたか。 地主へは、ごぼうの代金、つまり作物の損害賠償までも払いました。その時、馬の埴輪が見つかりました。 これは京都大学へ行っています。それに、琴を弾く埴輪の片方、足の付け根から下も。琴は今と違って短く、ヒザの上に置いて弾いたようです。 こういう埴輪は日本では珍しいものです。感激しました。ヒザの下には赤く塗ったあゆいのひもが付いていました。 埴輪の残りが発掘できれば復元できるのだが・・・。なにしろ発掘できたのは損害賠償を支払った、ごぽう畑の範囲内でしょ。 本当に残念でした」その後、蓼原遺跡の辺りは海軍用地となり、戦後も長く米海軍用地。当然、立ち入り禁止が続き発掘どころではなかった。 戦中、戦後の四十数年が過ぎた。再び、博土にうかがった。 「あのー帯が払い下げとなり、昭和五十三年に学校建築に伴う事前調査で、埴輪の残りが見つかりました。足に付けたらしい、どろの鈴も出てきました」  この琴を弾く埴輪は復元されて今、横須賀市博物館に「弾琴(だんきん)人物埴輪」の名で展示されている。
原本記載写真
昭和の初めに、赤星直忠博士によって琴を弾(ひ)<埴輪のー部が発堀された。ところが、つい数年前こその本体が見つかり、復元されたという。 写真は、弾琴(だんきん)人物埴輪=横須賀市博物館提供

蓼原遺跡 A 『「再発掘」いつでも』
原文

「弾琴(だんきん)人物埴輪」、琴をひく埴輪で話題となった横須賀市神明町、蓼原遺跡からは男女の埴輪も発掘された。 髪型は、男は美豆良(みずら)でリボンを付け、女はまげを結んでいた。ほかには家形や馬形の埴輪や土師(はじ)器、須恵(すえ)器も。 土師器は素焼きで文様がない。土器作りの専門集団の土師部(べ)が誕生、大量生産の末、土器に地方色がなくなった、という。 須恵器は朝鮮半島からの新しい焼物で、本格的なかまで焼かれた。 昭和五十三年の神明小学校建設にともなう事前調査で古墳が発見された。調査団長を務めた赤星直忠博士にご登場願おう。 「地下から古墳が見つかったのです。三浦半島は長い間、地殻変動で上下しましたから古墳の回りにムラがあった時期、 古墳が埋まりその上にムラがあった時期とさまざまでした。 現在は土地の開発とともに遺跡が破壊されることが多く、仕方なく発掘、記録を残しています。それも期限付き、どうかすると研究はニの次で発掘に専念する恐れがあります。 本来は時間をかけてノー卜を取りながら、ゆっくり発掘するものなのですが・・・」。 古墳は調査後、再び埋められた。そのために神明小の校舎の位置をずらした、とか。「五十年後、百年後の進んだ考古学の手によって研究してもらったほうがいい場合がある」とは、赤星博士。 調査団のー人だつた市博物館の大塚真弘学芸員は、こう語る。「前方部分が小さい前方後円墳で ”ホタテ貝型”とも呼びます。 全長が約三十b、後円部直径が二十b、前方部の長さ十b。古墳にはシートをかぶせて埋めました。前方部が神明小の校地のため、そこだけ石だたみにしてあり、 簡単に再発掘できるようにしてあります」。
原本記載写真
横須賀市立神明小学校の建設の時に、前方後円墳”ホタテ貝型”と呼ばれる古墳が発見された。 再調査できるように保存されている。写真は、神明小校舎沿いの石畳。この下に古墳は眠っている。

寄稿・補稿欄
皆様からの関連する記事・写真などの寄稿をお待ちいたしております。

参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
皆様からの声
ご意見、ご感想 お寄せ頂ければ幸いです。
ご意見・ご感想をお寄せ下さい


ご氏名 ペンネーム ハンドルネームなどは本文中にご記入下さい。 尚、本欄は掲示板ではございませんので即時自動的にページへ
反映される訳ではありませんのでご承知おき下さい。

メール:(携帯メールも可)