「かろうと山という名を聞いた時、すぐ古墳があるなと思いました。石室、つまり石造りの部屋を『かろうと』といいますから・・・」と語るのは、
横須賀市公郷町にお任まいの市文化財専門審議会委員、赤星直忠博士。
かろうと山古墳は、市内長沢四ツ田、野比川上流の標高九十五bの山頂東南端、篠竹と雑木に覆われた所にある。
戦前、何回も盗掘された、という。現在では、凝灰岩の切り石で作られた石室がさらけ出されている。
石室は長さ約二・五b、幅は約九十a、高さは約七十a。割石や布石で安定を保った感じだ。
昭和二十七年に赤星博士が調査された。再び、お話をうかがう。
「発掘したことがあるという人が弓弭 (ゆはず)を持っていると聞きましたので、考古学会員が片方をもらって来ました。
弓弭ですか。弓の両端にある弦をかける金具のことです。
切り石の石室は三浦半島唯一のものです。埋めないと風化してしまいますが・・・。
奈良時代の墓です。盗掘があったにもかかわらず直刀、刀のつか、弓、金銅針金、銅薄板、銀製弓弭などのかけらが見つかりました。
床に鉄や鋼のさびがついていたり、切り石と切り石の間から人差し指ほどの弓弭のかけらが出てきましたよ。
弓弭は銀の板で花びらが付いていました。出土品は、市の博物館にあります」
かろうと山古墳は、円墳なのか、前方後円墳なのか、石室が露呈しているので定かではない。
「横須賀雑考」(昭和四十三年刊)には 「墳丘は高さーbに過ぎない低いものであるが、石室の構造は立派であり、
出土品と併せて、この地方の豪族の墳墓にふさわしい。七世紀ころのもので、或(あるい)は、東大寺正倉院蔵の天平七年(735)『相模国封戸租交易帳』に記載され
ている三浦郡氷蛭(ひひる)郷との関連があろうかとも考えられる」とある。
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