京急横須賀中央駅わきの平坂の左上、ちょうど緒明(おあき)山教会の真向かいに当たる横須賀市深田台五番地、
若松町三丁目三十番地に貝塚が発見され平坂貝塚と呼ばれた。昭和二十四年に、当時の豊島小学校児童による発見がさつかけで、
夏島貝塚を調査した明治大学孝古学教室が発掘、次いで翌年、赤星直忠博士も。
発掘された土器は、尖(せん)底、つまり、とがり底の深鉢型で縄文式の中の夏島式土器、無文様の平坂式土器がおもだった。
わずかだが押型文や沈線文のものも。貝塚は縄文時代の早期、といわれる。
この貝塚の最下層から夏島式土器が発見されたことは、貝塚の古さを物語る、という。だが、それ以上に、日本最古の縄文時代の人骨が発見されたことで、
全国的な話題となった。
ほぼ完全なー体の人骨は、東京大学人類学教室によると、身長は一六三a以上の男性で、
当時としては長身で筋肉は発達していた。しかし何回か栄養失調による病気にかかったと思われる形跡のあることが指摘された。
学界は「平坂人骨」と命名、人骨は全身を伸ばした「伸展葬」という形で埋葬されてあつた。
現在は明治大学考古学陳列館にある。
貝塚からは、マガキ、ハイガイ、ハマグリ、アサリなどの貝類、魚ではマイワシの骨が大量に見つかった。動物ではシ力やイノシシの骨も出た、という。
最近、この平坂貝塚を”平坂西貝塚”ともいい、近くの深田台六番地一帯の”平坂東貝塚”と区別するようになった。
”西貝塚” が平坂式土器の標式遺跡、さらに「平坂人骨」で話題となったー方、”東貝塚” は今まで十分な調査、報告がなされていなかった。
だが、このほど「横須賀市平坂東貝塚の概要」と題して「横須賀市博物館研究報告(人文科学)第27号」(昭和五十八年十二月刊)に、詳しく報告された。
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