石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

咸臨丸出港の碑 『乗組員の名も刻む』
原文
横須賀市西浦賀町一丁目の愛宕(あたご)山の山頂に「咸臨(かんりん)丸出港の碑」がある。 日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。碑は船型、材質は花嵐(かこう)岩で大きさは縦一・五bからーb、横二・五bからー・八bほど。 碑の表は、時の外務大臣藤山愛一郎の筆による。裏は、咸臨丸乗組員の氏名が刻まれている。
「軍艦奉行=木村摂津守喜毅、
教授方頭取=勝麟太郎(海舟)、
軍用方=佐々倉相太郎、浜田与右衛門、鈴藤勇次郎、
測量方=小野友五郎、伊鉄太郎、松岡盤三、
蒸気方=肥田浜五郎、山本金次郎、
通弁役=中浜万次郎、
公用方=吉田勇平、
教授方手伝=小杉雅之進、根津欽次郎、岡田井蔵、赤松大三郎
医師=牧山修卿、大村栄俊、
公用方下役=小永井五八郎、
医師弟子=田中秀安、中村清太郎、
奉行従者=福沢諭吉、斉藤留蔵、秀島勝之助、大橋栄次、長島作、
鉄砲方小頭=貞吉、実次郎、
水夫小頭=仁作、音吉、善三郎、好平、
帆仕立役=政太郎、治作
鍛冶役=菊太郎
塩飽島水主=吉松、源次郎、清右衛門、友吉、太助、和三郎、松太郎、寅吉、角之丞、善四郎、信次郎、宮三郎、仁助、清蔵、 弥十郎、吉之助、金右衛門、国蔵、滝蔵、竹蔵、富蔵、勘次郎、伊三郎、幸三郎、源之助、常三郎、幸吉、 長崎水主=伊助、梅吉、久太夫、惣八、庄太郎、助次郎、栄吉、嘉右衛門、辰蔵、長次郎、九平、福次郎、大次郎へ
信吉、百太郎、
長崎火焚役=嘉八、小三郎、
小頭=九戸
火焚=紋太郎、久次郎、藤助、峰吉、弁之助、伊三郎、滝蔵、弥蔵、竹次郎、国太郎
塩飽島水主頭取従者=林之助、峯吉」。
 威臨丸は原名、ヤッパン号(三百d)オランダで安政四年(1857)建造。 九十六人乗り、長さ五十b、幅七・三b、百馬力、三本マスト。 万延元年(1860)一月十九日に浦賀港を出港、日米条約の批准書交換のため渡米、五月五日に帰国した。

原本記載写真
咸臨(かんりん)丸は、太平洋横断に成功した最初の日本船だ。万延元年(1860)1 月19日に、浦賀を出港した。 写真は、横須賀市西浦賀町の愛宕山に建つ、咸臨丸出港の碑。ここは浦賀園ともいい、明治、大正のころは小学生の遠足でにぎわった

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