横須賀市内には江戸時代の俳人、松尾芭蕉(ばしょう)の句碑が四カ所ある。
岩戸・満願寺境内 慶応二年(1866)建立で高さー・五b。
句は「先たのむ椎(しい)の木もあり夏木立」。岩戸の俳人、露暁、乙園、琢pの三人が建て、
中島木鶏が筆を取った。木鶏は浦賀奉行所与力の中島三郎助である。
長井町荒井の鈴木氏邸内 碑は高さ八十五a、幅十五aで建立年代などは不明。
句は「草色々おのおの花の手か良哉(らかな)」
長井町荒井の観音堂内 寛政五年(1793)建立で高さー・二〇b、幅七十五aの碑。
句は「海士(あま)の屋は小海老(えび)にまじるいとどかな」。いとどとは、こおろぎのこと。
長井の俳人、呉雪、芝休、越山、頭雁、神昼、及石、素萩の七人の名も碑に。
東浦賀町・東叶神社境内 句は「丹よ起丹よ起(にょきにょき)と帆ばし良寒き入江哉」。
高さー・一五b、天保十四年(1843)に福井貞斉が建てた。貞斉は、明治三年に八十歳で没。
東浦賀の専福寺に眠る。
「文学に現われた横須賀」(昭和五十七年刊)の編者のひとり、市立横須賀高校の野口茂教頭にうかがった。
「芭蕉句碑は芭蕉塚ともいい、その土地の俳句仲間が願主となって建てた場合が多い」と前おきして、こう語られる。
「句碑には名句が多く、その文字も古雅な感じで彫りも凝っています。寺社の境内や個人の庭先、その句にふさわしい景色のよい所などで見かけますね。
芭蕉は江戸時代には広く知られていたようです。でも、その文学的影響は、ほとんど俳譜(かい)の世界に限られていたと思います。
言い換えれば、芭蕉の俳譜は、いささか安易に受け取られていたということであり、芭蕉が十分に生かされていなかった、ということでしょう。
なお、横須賀市の友好姉妹都市のーつ、群馬県倉渕村には、芭蕉塚が七基あります」
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