石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

八坂道 @ 『旧道の面影を残す』
原文

京急汐入駅に近い汐入巡査派出所前、大久保モータースわきが坂本方面へ向かう八坂(やさか)道の入り口だった。 幕末、八坂衛所が設けられた所。汐入から坂本への大通りが整備され始めたのは明治二十四年(1891)、 重砲兵連隊が不入斗(いりやまず)にできてからである。 ゆるい坂を行く。 左手は汐入の鎮守、子(ね)ノ神社。祭神は大己貴命(おおむちのみこと)、大国主命だ。 境内に寄ってみる。神社は承久二年(1220)に勧請、天和元年(1681)に造営された。 当初は今の汐入町三丁目、長源寺とともに楠ケ浦の波島(はしま)にあったが、明治十七年に子ノ神山へ、 次いで三十一年に現在地へ移つた。 境内は六百五十坪(二千百五十平方b)、天保の年号を刻むこま犬や明治二十四年奉納の鳥居、石灯ろうが健在。 つい最近まで、日露戦争当時、旅順港にあった機雷も。大正の末、地元「長屋門」の若い衆が田浦の造兵部から払い下げを受け、大八車で運んで来た。 かつて八坂道入り口の付近に長屋門があったので、坂本坂下までを「長屋門」と呼ばれた。のちの「宮元」、今の汐入町四丁目である。 境内のがけ下、大通り沿いに敷地を奉納した記録の碑が建つ。碑の表には「本社旧在横須賀之北湊坊大己貴命明治三十年三月為海軍省用地産子相謀更新築於此 寄附者氏名謄記左通 市街地十坪五合三富利右衛門、郡邦宅地 弐畝拾四歩今井左兵衛、仝 弐畝拾四歩 岩田平作、外(ほか)拾六坪、仝 壱畝拾歩 石黒周太郎、仝 壱畝弐歩 堀田新吉」。 碑の裏には、今井久八ら十七人の建設委員名のほか「明治三十二年七月廿六日 揮毫者 間宮高美、石工 今村吉兵衛」とある。  再び神社裏へ。旧道の面影が残る曲がり道が続く。京急汐入駅付近を谷口とすると、南西に延びる細長い谷の中腹である。
原本記載写真
横須賀市汐入町から坂本町を経て池上、衣笠方面に通じる八坂道は、かなり旧道の面影を残している。 写真は、道沿いの子(ね)ノ神社。碑(左側)には、敷地奉納が記録されている。八坂道は神社の裏である

八坂道 A 『飯塚家の屋敷墓も』
原文

横須賀市汐入町四丁目、子(ね)ノ神社の裏を行く八坂(やさか)道は、地元の山車(だし)みこし格納庫わきに降りる。 かつて汐入大通りは水田だった。坂本坂下にたどり着く。右折すると釜が谷戸(やと)。 幕末から明治にかけて、この奥に牛骨などを煮つめる釜があった、という。 今の汐入町五丁目の牛ころし谷戸と防災用トンネルで結ぶ。坂下の右側の山は、かっぱ山と呼んだ。 昭和の初め、湧(わ)き水を使って海軍兵の雨具、かっぱを洗ったり修理する業者がいた。 晴れた日には山一帯に、かっぼが干してあった。 かっぱ山といえば、大正の末、この山から火の玉が出た、という。 「ふわふわと舞い上がる赤い玉が火玉、青い尾があり横に走るのが人玉」などと解説付きで、町は大騒ぎだった、そうな。 坂下のわきに、ため池が水をたたえていた。明治十五年(1882)測量の地形図にある。 ため池は坂本町二丁目九番地から十三番地辺りか。せきの石垣の跡が残っている。 このせきを埋めて明治三十八年、坂本の坂は完成。余分の土は、安浦港の造成にも役立つた。 完成したもののかなりの急坂。馬力(ばりき)でさえ登るのに苦労、まして荷物を積んだ大八車は死に物狂い。 それを見越して坂下には「立ちん棒」がたむろしていた。あと押しをして駄賃をかせいだ。 話を進めよう。八坂道は坂を登りかけた左手、佐藤小鳥屋の先の階段を登る。 タブノキなどの常緑広葉樹が日をさえぎる。「キツネにほかされたという話を子供のころに聞きました」とは、近くのお年寄りの話。 この道は、市内循環「坂本坂上」のバス停に出る。 右折する。米ケ浜消防署坂本出張所前。道は静岡屋食品店と飯塚商店の間を行くが、裏手には飯塚家の屋敷墓がある。 同家は、坂本きつての旧家、すでに明暦四年(1658)には住んでおられた、といわれる。
原本記載写真
横須賀市汐入町と坂本町の境。坂本の坂下は、釜が谷戸(やと)、かつぱ山、ため池、立ちん棒などと、 話題はつきない。写真は、旧八坂道。音はこの辺りで、キツネにばかされたとか。坂下の佐藤小鳥店わきを登った所

八坂道 B 『名付け説さまざま』
原文

元治元年(1864)から明治の中ごろまで坂本の戸数は十四戸だった、という。 町の発展ぶりを、坂本小学校記念誌「坂本五十年」(昭和五十三年刊)では「第一期は江戸初期から明治中期ーこじんまりとした農村、 第二期は明治中期から昭和初期ー軍の町として栄える、 第三期は戦後通勤住宅地となる」 ちなみに、明治四十一年の戸数は三百十二戸、人口は千六百十九人。三十年後の昭和十三年には千五十一戸、四千四百十六人、約三倍の増。 なお、昭和四十年と五十年の世帯数はニ千四百四十一と同数、だが、人口は九千七百四十六人からハ千三百四人に減つた。  飯塚家の屋敷墓わきを登ると鎮守、大六天神社が建つ。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)、境内には稲荷神社も。 寛元四年(1246)に勧請、天正二年(1574)に造替、社殿は昭和三年に御大典記念として改築された。 大通り越しに、ごわん山が見える。坂本町一丁目三十四番地から四十二番地辺り、市教育研究所跡の裏山だ。 「ごはんを盛った形に似ている」、「昔は天領、耕すにも許可のハンが必要だったから」など、名付けの説は、さまざま。 横に下りれば坂本町連合町会事務所。 戦前の半鐘が残る。旧道らしく、くねくねと曲がる。途中、坂本小への道、市立坂本病院への道、ぶどう棚への道が、 右手に。昔の踏み分け道そのもの。旧道の面影は、大通りに合流する六丁目一番地のがけ地にも…。 大通りといえば、道沿いの三丁目四十四番地には、大正初めころ光明座という芝居小屋があった。 また、四十三番地には戦後、坂本劇場も。建物にその名の一部が見える。 ついでに、一番地の川名商店を入った奥には、関東大震災までは、ショウブが茂った沼や、陸軍の射的場があった。  八坂道は、詩にも歌にも、うたわれない。だが、この道とともに、横須賀は産声を上げたのである。
原本記載写真
旧道らしく、くねくねと曲がるハ坂道には、昔の踏み分け道がいくつも。写真は、左側のがけ下に残る旧道。 横須賀坂本町6 ノ 1 の大通りと合流する地点である。ここから池上へは山越えだった

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