京浜浦賀駅から鴨居方面へ向かう。途中のバス停「新町」の先に浄土宗、顕正寺がある。境内に江戸時代の陽明学者、中根東里が眠る。
墓石は平頭角柱型で伊豆山石製。塔身の高さ三〇・四a、側面の幅二〇・九a、基礎の高さ十七・五a。
正面に「東里居士(こじ)墓」、裏面に「居士姓中根、諱若思、字敬父、亦孫平、伊豆人也」。
いずれも東里の自筆だ、といわれる。左側面には別筆で「明和二年(1765)乙西春二月七日以疾、年七十二」。
近くの標識にはこう記されている。「中根東里先生、先生廿二歳ノ時 父ヲ失ウ、禅寺二入り浄土教ヲ修ム、儒学二移り徂徠(ソライ)、
鳩巣(キュウソウ)二師事ス。ノチ陽明学二転シ、遂(ツイ)ソノ極致二達シ、万物一体ノ義ヲ明力二ス、
宝暦十二年(1762)二月七日二卒ス年七十二
昭和三二年弥生 横須賀市
横須賀文化協会」
つまり東里はー時、出家をしたが、著名な学者だった荻生(おぎゆう)徂徠、更に室(むろ)鳩巣に弟子入り、
古学派の学者となり、また陽明学を修めー家をかまえるに至った、という。
中根東里の説くところは天地万物一体の義を明らかにし、その心は仁であり、人が学問するのはその仁を実践するためにある、という。
彼自身、清貧に甘んじ学問に励んだ。
浦賀に来たのは姉が浦賀奉行所与力の合原勝房に嫁していた。その縁を頼って下野(しもつけ)栃木県)天明郷(今の佐野市)の知松庵から浦賀の合原家に移り住み、
晩年を過ごし没後、母の墓所である顕正寺に葬られた。なお姉の合原夫妻は、浦賀港をへだてた対岸の西浦賀町二丁目、常福寺の境内に眠る。
墓石によると、勝房は享保十五年(1730)、妻(東里の姉)は明和六年(1769)に没した。
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