横須賀市馬堀町から浦賀町に向かう矢の津坂を土地の人々は「やんつさか」と呼ぶ。
かつては今の馬堀町二丁目、京急ガード先の角井ストアーわきから登る。
今でこそ気軽に通り越すが・・。
矢の津坂の開削工事が明治二十二年(1889)十月三日付の「相陽民報」に載っている「横須賀町より浦賀町に達する道路中、
峻(しゆん)坂を以(もっ)て聞えある矢之津坂は、山間に挟まり居(お)るがため日中、太陽の光を受けずーたび雨ふれば、
坂路泥濘(でいねい)人馬の膝(しつ)下までも埋める程なれば、雨後数日を経るもなお輓夫(くるまや)泣き馬子苦しみ、
独り商業上の不便利を感ずるのみに止まらず、官私百般の事に付き不利困難を受け居りしもこれ等の局に当るべき人々は
之(これ)が改修事業を為(な)さんと計りし事ありとも聞かざりしに彼(か)の浦賀地方にて屈指の有力家、
臼井儀兵衛、高橋勝重、太田又四郎、宮井与右衛門、三次六兵衛、宮井、石渡、鈴木、増田、長島、穴沢等の数氏は発起人
となり、矢之津坂を切り下げんと大略(おおよそ)の工費を見積りたれぱ、千五百余円にて平路に成し得べき予算立ち、
之が支出方を協議せしに、発起人中にて応分づつ出金し・・・」。地域のために奉仕した人たちをほめたたえている。
当時の「覚書」による、矢の津坂の原野三町六段九畝(せ)六歩(ぶ)、つまり約一万二千平方bを大津の有力者、
斉藤、石渡、龍崎、雑賀の四人が金千三百円で買い取つた。工事費は千五百円、これだけの大事業なのに工事の状況を知る資料は残っていない、とか。
矢の津坂は何回か改修工事が行われたようだ。「大津郷土誌」(昭和五十六年刊)には、「大正十二年四月二十七日の池田屋日記(石渡秀吉氏夫人執筆)
よると『主人、矢の津坂開通式、午前十一時より、すみて後、浦賀学校にて祝宴会あり』との記録がある」と。
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