石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

内川新田  『8年の苦労で完成』
原文
国鉄久里浜駅から京急線ガードをくぐり平作川沿いを下る。左手に夫婦(みょうと)橋。 そのたもとに高さニ・一bの笠塔婆型の石塔が建つ。内川新田開発記念碑である。 わきには夏、紅色の花が咲くキョウチクトウ。  碑の表面、中央に「南無阿弥陀仏」、右に「霊巌寺」へ 左に「大誉(花押)」とあり碑文は次の通り。 「相州三浦内入海新田並八幡原新畑見立此門樋成就処年々舟鼻及破損八ケ年致  苦労尽工夫時依蒙仏神夢想而今此以石柱成就畢水神往護為子々孫々諸人現当二世安楽也   寛文七丁未年三月吉日   砂村新左衛門尉政次 敬白」 これは新田開発に当たって水門がしばしは破損、八カ年の苦労と神仏の加護によって完成した、 という記念碑である。 「此(この)地、古は入海なり、年を迫って沼地となりしを万治(1658〜61)中、 砂村新左衛門と云(いう)者、摂州大阪上福島の人、官許を得て開墾す、当時、高三百六十石余、 今五百八十石余に及ぶ、同三年検地あり、初は内川砂村新田と唱え、延宝(1673〜81)の頃より砂村の二字を除けり、 是(これ)より先、寛文十一年(1671)再び検地して貢数を増加せり」と「新編相模国風土記稿」 にある。 砂村新左衛門は、横浜の野毛(のげ)新田開発の経験を生かした。工事はそれまでの大川、吉井川、佐原川をーつにして海へ注ぐように防波堤を完成。 干潮特には開き満潮時には閉じる「かけ戸」で水量を調節する橋、夫婦橋も。 寛文七年(1667)に新田は完成した。海岸の砂地が農地となった。広さ約百四十六町歩(約百四十五万平方b)、 うち水田は百四町歩(約百三万平方b)だった。文化年間(1804〜18)の産米禄高は五百八十五石という。  碑は、昭和四十三年に横須賀市指定史跡となる。なお、砂村新左衛門は久里浜二丁目、正業(しょうごん)寺に眠る。

原本記載写真
江戸時代の初めごろである。砂村新左衛門が、横浜の野毛新田開発の経験を生かして、寛文7年(1667)に横須賀市久里浜で内川新田を完成させた。 写真は、平作川の夫婦橋わきに建つ内川新田開発記念碑

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