石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


浦賀道を行く @ 『幹線道路の役割を』
原文

「(竜馬は)足のつづくかぎり浦賀街道を南にむかつて駈けた。六浦で夜があけ、 昼は山中で寝た。浦賀についたのは、翌翌日の未明である。浦賀水道を見おるす小原台によじのぼって日の出を待った。 やがて、夜があげた。濃紺の海に巨大な軍艦が四隻うかんでいた。…」 これは、司馬遼太郎の名作「竜馬がゆく」のー部である。江戸と浦賀を結ぶ浦賀街道、つまり浦賀道は、徳川家康が 江戸入りした翌年、天正十九年(1591)代官の長綱が西浦賀に来てから往来が盛んになつた。 そして、享保五年(1720)に奉行所が伊豆下田から浦賀に移ると、幹線道路の役割を果すようになった。 三浦半島には、三つの古道があった、という。 浦賀道=東海道の保土ケ谷宿から金沢八景を経て追浜へ。あとは山越えで、田浦、逸見、汐入、上町、堀の内、大津、浦賀へ。 鎌倉道=鎌倉から逗子、葉山、阿部倉、平作、大津、浦賀の間。江戸時代には浦賀奉行が江戸への往復に利用した、とか。 三崎道=三浦三崎から長井、相模湾沿いに林、佐島、芦名、秋谷を経て、葉山の大道(おおみち)で鎌倉道と結ぶ。   ここでは、横須賀市内の浦賀道を歩いてみよう。京急金沢八景駅から国道16号線を行く。 追浜駅の手前に切通しの面影が。横浜市と横須賀市の境界、昔の武蔵の国と相模の国との国境である。 さあ浦賀に向けて出発だ、左手に雷(いかつち)神社、通称「かみなり神社」と呼ぶ。祭神は火雷神(ほのいかつちのかみ)、 永禄年間(1558〜70)ここに落雷があり、居合わせた十二人の婦人が火雷神の御加護で生命を取り止めた、という。 この神社、古くは迫浜駅前近くの塩浜にあった。 浦賀道は、迫浜駅周辺で跡かたもない。そこで駅前を過ぎ踏切を渡る。浦賀道沿いだった、という良心寺を訪ねる。
原本記載写真
国道16号沿い。京浜迫浜駅の横浜寄り、切り通しの面影が残る所が、かつての武蔵と相模の国境。 ここから横須賀市内の浦賀道が始まる。写真は、市内追浜本町 1丁目の雷(いかつち)神社、 通称「かみなり神社」と親しまれている

浦賀道を行く A 『通行するものなし』
原文

横浜から横須賀を経て浦賀に至る道が県道となつたのは、明治十二年(1879)。 そのうち横浜・横須賀間がニ十年に四十五号国道に指定された。国道とはいえ、その難所ぶりは 「三浦郡浦郷村郷土誌」に、こう書かれてある。 「横浜県庁より横須賀鎮守府に通ずるものにして幅二間(約三・六b)、六浦荘村なる三分より本村本浦に入り、 良心寺の前より船越学校の西方に出で、忍坊谷戸(やと)を登りて田浦に出で遂(つい)に十三峠に至る延長二里(約八`) 険阻なる山路にして現今殆(ほとん)ど通行するものなし」  京急追浜駅前を過ぎ、右手の踏切を渡ると良心寺。風格のある浄土宗の寺院だ。  開基は後北条氏の家臣、朝倉能登守景隆。境内左のがけの中腹に宝篋(ほうきょう)印塔の墓がある。 塔身の高さ約二b、裏面に「当寺建立大具主 大悲院殿法誉良心大姉 朝倉能登守 奥 天正十一年未賓十一月」。 能登守夫人の墓。寺の名は法名から付けられた、という。 ここで朝倉能登守を語ろう。明応四年(1495)世は戦国時代。伊勢新九郎長氏(ながうじ)、後の北条早雲は小田原 城を拠点に約百年間、関東で力を振るう後北条氏の祖となる。源頼朝の夫人政子の実家、北条氏と区別して、 のちの北条氏、後北条氏と呼ぶ。 その二代目、氏綱に仕えたのが朝倉能登守。命により三浦半島を治め、浦郷に陣屋を設けた。良心寺の東方に当たる。 幕末には海防陣屋となり、大津に陣屋が設けられると支陣屋に。  良心寺から国道へ。田浦寄りの山を越えねばならぬ。今でこそ、浦郷トンネルと新浦郷トンネルがあるが…。 トンネル手前、左側の石段を登る。登り切ると道は左折するが、まつすぐ行く。目の前に思わぬ切通しがある。
原本記載写真
京急追浜駅から田浦寄り、踏切を越えると浄土宗、良心寺がある。開基は北条氏の家臣、朝倉能登守景隆で、近くに浦賀陣屋を溝えた。 陣屋は、幕末には海防陣屋となり、大津に陣屋が新設されると、支陣屋に。写真は、能登守夫人の墓

浦賀道を行く B 『海軍工廠で栄える』
原文

京急追浜駅方面を背にして浦郷トンネル上の切り通しに立つ。標高六十b、この辺りは浦賀道、最初の難所だつた、とか。 昔は、こう簡単には越えられなかったに違いない。別の道もあった、という。トンネル手前から遠回りして榎戸(えのきど)に出、 山越えして船越、十三峠、安針嫁へと登り詰める道である。榎戸といえば、今は浦郷町。ここの港は、かつて鎌倉幕府の外港、 江戸時代には穀物の問屋で栄え、魚介類を船で江戸へ送った所。 さて、切り通しからは尾根道が続く。左に船越町六丁目の団地が手に取るよう。浦賀道は、今の田浦警察署裏から船越小学校わきへ出るのだが道が途絶える。 やむなくトンネル口近くの国道へ一気に降りる。京急田浦駅前から逗子市沼間へ向かう県道を横切る。左角は船越小学校。近くには東芝電気横須賀工場、 明治以後、海軍工厭(しょう)造兵部があった所。「船越の住民は艦(ふね)のジャンジャンで時刻を知り、工場のブーウで飯を食う」 と「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)にある。 また、このー帯は船越新田と呼ばれた。「新編相模風土記」に「当所は浦郷・田浦二村の際にて昔は入海なりしが年を追 って漸(ようや)く埋れる地なり」。今の横浜市金沢区の泥亀新田を造つた永島泥亀の子、春重が元禄十二年(1699) に開いたもの。  県道入り口を横切り、京急の線路沿いを船越町二丁目の山にかかる。本来なら、この辺りの青木坂から田浦町六丁目、山 の上の池の谷戸(やと)公園を目指して登るのだが途中、道が消えている。 残念だが県道まで戻り沼間方面へ歩く。船越町二丁目、魚庄魚店の先を左折、谷戸を行く。板取児童公園の下を左へ、 家並みの尽きた上の尾根を大きく右回りすると分かれ道に。左へ行けば、池の谷戸公園だが右へ進む。 雑木林の小道を降りると田浦町五丁目の奥へ。目の前を横須質線が走る。右に沼間へ向かつトンネル口、 左奥には臨済宗の盛福寺。
原本記載写真
京急追浜駅から田浦へ向かう山越えは浦賀道、最初の難所だった。ここを避けて榎戸(えのきど)へ回る道もあつたという。 写真は、国道16号、浦郷トンネル上の切り通し。ここの尾根続きがいい


浦賀道を行く C 『近くには田浦梅林』
原文

標高七十b、田浦町六丁目の池の谷戸(やと)公園手前から同町五丁目の奥へ降りると臨済宗、盛福寺が建つ。 本尊は十一面観音。江戸時代初期の創建で元禄三年(1690)ころ七堂伽藍(がらん)が建立されたが、 二度の火災で面影を残すのは山門だけ、という。明治末期には近くの坂本谷戸の九枚(くまい)耕地に、 寺の梵鐘(ぽんしょう)を鋳造する所があった、とか。 山門には「渓声廣長舌」「山門清浄身」と刻まれた石碑。横には六地蔵と石仏が四十六体も。 石仏には寛文、天和、享保、宝暦、安永、文化などの年号が目に止まる。境内右のがけ下に「正一位田浦稲荷(いなり)」がある。 盛福寺前から横須賀線沿いに国道16号へ。国鉄のガードをくぐる。田浦町三丁目、岩沢フルーツ店横の馬頭観音は、 いぼ取りや百日咳(ぜき)にも効く、とか。ここには七月の天王祭で、おみこしの「浜の御仮屋」も。 花森生花店わきを行くと、右手に庚由塔(こうしんとう)。高台に日蓮宗は静圓(じょうえん)寺、 静けさに心を引かれる。天文五年(1536)当時の名主、石川雅楽助が建立。代々、名主を世襲し た石川家は村一番の且郡(だんな)、この辺り、いつしか且郡谷戸と呼ばれた。 再び谷戸の道を行く。右に田浦小学校が見える。歴史は古い。明治七年(1874)この先の長善寺で開校された田浦学舎が始まり。 田浦小の奥を小山田谷戸と呼んだ。 浦賀道は、京急線ガード手前を左へ、田浦町二丁目の長善寺へと向かう。目の前のガードをくぐれば大作(おおさく)谷戸。 土地の開拓者、大作さんの名だ、といわれる。町名は田浦大作町、という。 近くに、田浦梅林、田浦緑地がある。梅林は昭和九年、皇太子ご生誕を祝い七百本の梅を植えたのが始まり。 毎年の梅林まつりが楽しい。緑地は新しい市の施設、十六基のフィールド・アスレチックは、子供たちの心を奪う。
原本記載写真
浦賀道からはずれるが、横須賀市田浦大作町の谷戸(やと)には「白赤稲荷」がある。昭和41年に京都・伏見稲荷の分霊を祭った。 50本以上も立ち並ぶ鳥居は、三浦半島では珍しい。近くに田浦梅林、田浦緑地も
浦賀道を行く D 『長善寺の地蔵さん』
原文

横浜市寄りの追浜地域から船越、田浦地域へと浦賀道をたどってきた。途中しばしば道は定かではなかったが今、 横須賀市田浦町二丁目、浄土宗は長善寺前に立つ。寺の墓地には鎌倉時代と思われる五輪塔があるが、 長善寺としては天正四年(1576)に創建された、という。元禄年間、暴風で倒壊したために享保十七年(1731)、 土地の石川太治衛門が再建。寺にある不動明王は、後北条氏に敗れた三浦道寸義同(あつ)の家臣が預けたもの、 と伝えられる。毎年十月十日に行われる「お十夜」は善男善女でにぎわう。また、門前のお地蔵さんは享保年間(1716)のもの、とか。 賀道を往来する人々も旅の安全を祈願した、そうだ。 京急線ガードをくぐれぱ田浦泉町。この辺りは温泉谷戸と呼ばれ、鉱泉がわき出ていた。東京からの温泉客でにぎわった、という。 湯を管で引いてお風呂屋を開業した人も。この泉町から国道に向かって流れるのが高熊川。昭和初期までは、ホタルが飛び交い、ドジョウをすくった、 という思い出を語るお年寄りが多い。ガードから、すぐ左手への道が「磯(いそ)道」。長浦方面の海辺に通ずる大切な道だった。 かつて田浦地域には、四つの神社があった。貴船(きふね)神社=大作、泉町の鎮守、暗雲(やみくも)社=天王様、御伊勢山皇大神宮=田浦村の鎮守、 御霊(ごりよう)神社=浜(池の谷戸、小山田谷戸など)の鎮守。これらが大正八年(1919)、一カ所に合祀(し)され御霊神社の位置に神明社が新たに造営された。 国鉄田浦駅に近い石段を登る。国道16号と国鉄横須賀線の間、樹齢百数十年のイチョウの木が涼を呼ぶ。 大みそかに訪れる土地っ子が多い。  この「浦賀道を行く」は単なるコースの案内では味気がないと思い、だいぶ道草を食ってしまう。次回は、いよいよ十三峠に差し掛かる。
原本記載写真
旧道筋には庶民の心の支え、よりどころとなった物が数多く残っている。写真は、横須賀市田浦2丁目、長善寺のお地蔵さん。 浦賀道を往来する人々が、旅の安全を祈願したそうだ。まもなく十三峠である

浦賀道を行く E 『最大の難所十三峠』
原文

いよいよ浦賀道、最大の難所十三峠を目指す。田浦町二丁目の長善寺わきを左折、小道は登り坂となり急な石段となる。 途中に天保十二年(1841)丑(うし)年三月吉日の道六神。この坂を小田坂と呼ぶ。 登ると左は市営月見台団地、自動車が行きかう田浦町一丁目だ。この辺りを城の台、土地の人は「しろんだ」という。 約七百年前、鎌倉幕府の家臣、秋田城之介景盛、義景親子の下屋敷があった。 義景は、風光明媚(ぴ)なこの地を愛した。ある秋の夜の月見の宴で側室唐衣(からぎぬ)のひく琴の音が美しく響いた。 田浦に百年も住む夫婦狐(ぎつね)の牡狐は琴の音に魅せられ、小姓に化けて聞いていたが怪しまれ切り殺されてしまった。 恨んだ牡狐は唐衣に乗り移り秋田家を滅亡に追いやった、という。 狐の頭は月見台のがけ地の白狐稲荷に、胴体は半ガ城下の泉稲荷に祭られた、とか。 また、唐衣の稲荷は田浦町三丁目の岡本商店前。 小田坂を登つた。浦賀道は県立塚山公園へ。今でこそ舗装道路だが、かつては名にし負う難所、十三峠だった。 「陸路ハ難所二テ七里八坂トイイ是(コレラ)坂ケ拾(ハンカヒ口)通りトイイ…」と、 「三浦古尋録」(文化九年刊)にある。 景色がいい。眼下に谷戸の家並み、横須賀や長浦の港、房総の山も浮かぶ。江戸時代の画家、安藤広重が筆を取った。 「たしかな画家の視線=田浦の里・山中風景」という解説付きで「広重武相名所旅絵日記」(昭和五十一年刊)に紹介されている。 ここ十三峠は、戦後の食糧不足の対策として農地開拓が行われた。これは自作農創設特別措置事業の公布によるもの。 昭和二十三年三月に、十三峠開拓組合の手で鍬(くわ)入れ式。入植者は二十世帯で掘つ立て小屋を建て、ランプの下で寝起きした、という。 四十九年五月には、開拓組合二十五年祭が盛大に行われた。その辺の事情は「横須賀市農協の二十年=農業三代の記録」(昭和五十八年刊)に詳しい。
原本記載写真
十三峠は戦後、開拓組合の皆さんが入植、掘つ立て小屋を建てランプの下で生活。 戦争で荒れ果てた自然の復活に尽くされた。写真は、開拓記念碑。月見台団地から県立塚山公園に向かう右側に建っている

浦賀道を行く F 『按針塚を横目に』
原文

十三峠の尾根を進めば、県立塚山公園の中心に。徳川家康の厚遇を受けた三浦按針(本名ウイリアム・アダムス)夫妻の 宝筴(ほうきょう)印塔が夏の日差しに映える。明治四十五年(1912)六月に行われた「按針塚」の碑の除幕式を、 当時の新聞は、次のように伝えている。 「…当日は朝来、非常の好天気にて、停車場より逸見十三峠に至る沿道各戸の軒頭、国旗飜(ひるがえ)り、 園内は隅(くま)なく彩旗を以(もっ)て装飾され、観衆は近に充満し、時ならぬ賑(にぎわ)ひ・・・」。 来賓の井上馨(かおる)侯爵は、かごで十三峠を登り下りした、という。  木漏れ日のベンチでひと休み。涼風が心地よい。手もとの「元治元年(1864)横須賀村付近地形図」の写しを見る。 原図はー万分のー、地形図とはいえ当時の道路を知るうえで貴重な資料。横須賀製鉄所建設に当たり調査、測量して作られたもの。 「地形図」によると、浦賀道は、この先は逸見村(図では辺見村)を通り、今の横須賀駅上の稲荷(いなり)山を経て、汐入の牛殺し谷戸(やと)に降り、 八ッ堀(今の汐入小学校の辺り)、古谷(こや)の台、中里(今の上町)、聖徳寺坂を経て、海岸沿いを大津、馬堀へ向かう。  腰を上げる。西逸見町三丁目へー気に下る。この道は早朝、土地の人々の散策でにぎわう。石段下には吉倉町に通ずる防災用トンネルが完成した。 この辺りに小田原屋、桑名屋という木賃宿があり、行商人などの泊り客で繁盛した、という。 東急線ガードをくぐれぼ鹿島神社。祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、応永十七年(1410)三浦遠江守(とうとうみのかみ)が常陸(ひたち)の鹿島 神社を勧請した。かつては逸見森崎字七番七五二番地、今の海上自衛隊横須賀地方総監部の辺りにあったが、明治二十八年(1895)六月、 村の中央に当たる現在地に社殿を造営、移った。
原本記載写真
横須賀市西逸見町2丁目の鹿島神社は、かつては今の海上自衛隊地方総監部の辺りにあった。応永17年(1410)に三浦遠江守が常陸の鹿島神社を勧請したという。 写真は、毎年の祭礼でにぎわう同神社

浦賀道を行く G 『心に安らぎ覚える』
原文

塚山公園から横須賀市西逸見(にしへみ)町へ。鹿島神社に続いて浄土寺がある。浄土宗。鎌倉時代の初め畠山重忠が 創建した。元和八年(1622)七月、逸見全村が壇家になった、という。本尊は三浦按針の元本尊であった観音像を遺 言によって祭った、と伝えられる。三浦札所第二十番。寺の東南の地は「ぶどう畑」といい按針邸の跡だつた、とか。 寺の裏手は逸見小学校。校史は浄土寺から始まった。同校の「沿革誌」では「明治六年五月九日、三浦郡逸見村五百八十二番地、浄土寺本堂ヲ校舎二代用シ、 創立ス」とある。仮住まいは六年間。以後、明治十二年には鹿島神社の境内へ。二十年には西逸見町の河合医院の上へ。 ここは「学校山」と呼ばれた。三十三年に逸見小は現在地へ。 逸見小といえば名作「大菩薩峠」の作者、中里介山がー時、学んだ。介山の父弥十郎は妻ハナの父、 加藤藤三郎が横須賀で海産物や肥料の商売をしていたので、一家で移り住んだ。日本近代文学館に、明治二十五年四月二十四日付のニ年生の修業証書が保存されている。  浦賀道は、浄土寺前の路地を進む、という。その説に従って細かく記してみる。 小内アパートの前で左折、逸見小に通ずる道路に出る手前を右折する。大須賀歯科医院前を通り、逸見谷戸(やと)川を渡る。 ついでにーつ。下流にあった汀(なぎさ、みぎわ)橋は「皇国地誌」(明治八年刊)に「長サ六間(約十一b)幅三間(五・四b)橋下ノ水深サ六尺(一・八b)、 木製二テ修繕、官費ヲ以(モッテ)ス」とある。 浦賀道は、魚正魚店の裏で袋小路。この辺りは定かでない。ともかく今の駅前通りの位置を横切り、喜久の湯と寿食堂の間を入る。 すぐ左折、家並みの中に逸見旅館の前で足が止まる。心に安らぎを覚えるたたずまいである。浦賀道は、 このあと稲荷(いなり)山を越え、汐入へ出る。
原本記載写真
浦賀道最大の難所、十三峠を越えた人々は、逸見の谷戸(やと)に下り、ホッとしたに違いない。 写真は、横須賀市逸見町 1丁目の逸見旅館。心に安らぎを覚えるたたすまいである。ここから稲荷山を越え汐入へ出る

浦賀道を行く H 『稲荷山を越えて』
原文

横須賀市東逸見町から汐入町への稲荷(いなり)山を登る。横須賀駅前の山だ。 お稲荷さんは駅裏の国道沿い、ホンダモーターわきの防空壕(ごう)跡に移っている。 稲荷山は黒川漬物工場前から。途中、右手にコンクリート造りの地蔵堂。本尊には「元禄十一年丑(うし)七月日」とあり、 石に「南無阿弥陀仏同行十六人」とも。荒れ果てていたのを昭和八年二月、のちに伊豆大島へ移られた東(あずま)さんという方が改修された。 山頂を行く。眼下に横須賀港。左前方は吾妻(あずま)島、旧箱崎半島。島全体が旧海軍燃料貯蔵庫で、山は信号旗がはためいた旗山。 「招く旗山、錨(いかり)をおりょしや・・・」と戦時中、歌われた。 長浦湾への近道、荒井の掘割も見える。これは明治二十三年(1890)に完成された。 山頂は戦時中うかつに歩けなかった。立ち止まつて軍港を眺めようものなら、スパイ容疑で逮捕された、という。 昔は桜山とか見晴らし山と呼んだ。鎌倉幕府の記録書「吾妻鏡」に、三代将軍の実朝が桜見物に横須賀へ来遊したとあるのは、この辺りだ、といわれる。 汐入町一丁目の谷戸の奥を回る。字(あざ)唐沢、のちの港町である。真っすぐ行けば汐入町五丁目の谷戸。 明治のころ牛を屠(と)殺する所があったので、「牛ころし谷戸」と呼ぶ。だが今は左折、臨海公園前の山へ。関東大震災の時に大きく崩れた。 臨海公園は約九万平方b、旧海軍軍需部跡。海軍工廠(しよう)へ資材を運んだ貨物列車の鉄路が、国道沿いに残る。 鉄塔の下に降りる。東京電力子(ね)ノ神山開閉所。明治三十二年(1899)まで「子ノ神社」があったので、今もって子の神山と呼ばれる所。 海軍施設への送電が急増したため、神社は今の汐入町四丁目に移らざるを得なかった。開閉所入口の曲り角に「海軍用地」の道標がある。
原本記載写真
横須賀駅前の稲荷山を越えると、浦賀道は汐入町へ。お稲荷さんは駅裏の国道沿いにまつられている。 山道には地蔵堂があり、子育地蔵尊には元禄11年とあり、「南無阿弥陀仏同行16人」とも

浦賀道を行く I 『延命地蔵今も健在』
原文

横須賀市汐入町二丁目。子(ね)ノ神山は戦前、子供たちによつて「軍艦山」とも呼ばれた。 東京電力子ノ神開閉所から汐入大通りの汐入郵便局へ下る道は、のちに開かれたもの。 浦賀道は、開閉所を左下に見て右へ登る。秋葉山万蔵寺の静かなたたずまいから汐入町五丁目、大和ピル前へ。 「牛ころし谷戸」へ通じる上の道へ出た。今の汐入大通りは、その昔は入江か湿地帯。坂本坂下のわきに溜(ため)池があって水の流れを調節した。 旧EMクラブ辺りから汐入巡査派出所までのー帯は、のちに汐留新田。 安政元年(1854)の記録だと、新田は「高十三石八斗六升三合、三町三反四畝二十二歩」。 内訳は下田一町五反五畝三歩、下々田九反四畝十四歩、下畑七反八畝・・・」。 明治五年(1872)に新田を埋め立て、三浦郡役所や汐留人足寄場などが設けられた。 十二年には、鴨居の若松屋、高橋勝七家が名主の永島家から新田全部を金百円也で購入した、という。 巡査派出所の前、大久保モータースわきの裏道が坂本、池上へ行く八坂(やさか)道である。 浦賀道は、今の汐入小学校わき、かつての谷っ堀(やっぽり)から緑が丘へ。 登り口近くにあった洞ノ口地蔵尊は今、「延命地蔵尊」と呼ばれ本町三丁目、とぶ板通りに健在。 「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)には「汐留町に在り朝夕線香の煙絶えず、茲(ここ)にも茶屋町の女どもが朝に夕に 参詣して居る」とある。線香の煙でお堂の中はかすむほど。土地の人々によって長い間、見守られてきた。 お堂の左手に汐留睦(むつみ)会の奉納額。大震災直後、お地蔵さんがさびしいというので土地の若い衆が贈った。 額の下に「震災殉難者の碑」、近辺の人の名が刻まれてある。 お堂の右手は母子像。昭和初めの旧EMクラブ裏の大火で、海外出張中の主人を残して焼死した母子を祭る。 敷地内から納められたもの。お堂には、生前こよなく地蔵尊を愛した不入斗(いりやまず)町四丁目にお住まいだった直木賞作家、 穂積驚さんの句が 「ひとり静
ふたり静と地蔵尊」

原本記載写真
塚山公園を下りた浦賀道は、横須賀市東逸見町の稲荷山から汐入町へ下り、さらに、今の緑が丘へ登る。 写真は、どぶ板通りにある延命地蔵尊。かつての「洞ノ口地蔵尊」で、土地の人々に長い間、見守られている

浦賀道を行く J 『遠のいた海岸線…』
原文

京急汐入駅に近い汐入小学校のある谷戸(やと)は昔、谷っ堀(やっぼり)のちに谷町と呼ばれた。 校庭の右わきを行く。ゆるい石段の左上は八幡(はちまん)山。 八幡山は大津陣屋にあった八幡神社が移された、という。今は緑が丘学院の校舎が建つ。 隣は諏訪公園、戦前はシベリア出兵で持ち帰ったという熊(くま)がいた。 登り切ると分かれ道。浦賀道は右へ行くが左下は聖ヨゼフ病院。六十年前までは横須賀市役所があった。 向かいは諏訪(すわ)神社、正しくは諏訪大神社(おおかみのやしろ)。康暦二年(1380)に三浦貞宗が横須賀の鎮守として信州 (長野県)の諏訪明神を勧請した。三浦氏滅亡後、次第に村人たちの身近な存在となった。慶長十一年(1606)以後、 代官による三浦郡中祈願所に指定された。祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。 分かれ道に戻る。右へ登ると平坂上まで尾根の道が続く。やがて左手の高台が、こやの台。茶店ではくつろぐ旅人でにぎ わつたい明治二十七、八年(1894〜5)の日清戦争を記念して大勝利山とも呼び、戦死者を祭った忠魂祠堂があった。 がけ下は三笠銀座。下町一帯は埋立てに次ぐ埋立てで、海岸線は遠のいたが、かつては眼下が波打ち際だった。 浦賀道が下り坂になる。右下は汐入町三丁目の長源寺坂。大楠山はおろか、冬の晴れ日には富士の秀嶺も。左折して下ると中里神社がある。 祭神は宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)ら。ここは稲荷谷戸(いなりやと)、古くは稲荷神社、明治四十二年(1909)に中里神社となる。 浦賀道は上町一丁目、アルマン洋菓子店と法塔べー力リーの間から平坂上へ出る。近くの歩道上に中里村が明治の初めころに建てた、という道路元標が残る。  浦賀道は、上町一丁目巡査派出所わきから聖徳寺坂上までは、今の深田中通りを行く。磯(いそ)の香ただよう海辺は近い。
原本記載写真
登ったり下ったり息が切れる。浦賀道最後の山越えは、今の町名でいえば横須賀市汐入町〜緑が丘〜上町。 あとは聖徳寺の先から昔の海辺を行く。写真は、上町1丁目、平坂上の歩道に残る道路元標。明治の初め中里村が建てたという

浦賀道を行く K 『安浦の海岸線一変』
原文

深田中通りから聖徳寺坂上に出る。京急線ガードの右に昔のたどん(田戸)坂が残る。 左手に料亭「小松」があった。その下に、今なお三浦郡の総名主などを務めた永島家の赤門が健在。 文久二年(1862)に建てた道標も。「右、大津浦賀道、左、横須賀金沢道」とある。 明治三十年(1897)には浦賀の芝生(しぼう)まで馬車が走り出した。六人乗りで浦賀までー人七銭。 ちなみに人力車では四十銭だった。浦賀道は、聖徳寺下から今の京急安浦駅前を通り富士見町へ抜ける、 どうめき坂下を通り過ぎる。大正十三年(1924)に安浦埋め立て地は、安浦町一、二、三丁目に分けられ海岸線はー変した。 埋め立て以前の様子は「横須賀案内記」(大正四年刊)による。 「大字(あざ)公郷の海に沿ひたる一帯を田戸、山崎、堀の内とす。弓形を為(な)せる長汀(てい)曲浦は大津に連り走水に達し、 後方は絵の如き猿島を望み、洲浅く波高からず。誠に夏季適良の海水浴場なり」。 三春町一丁目の浄蓮寺。町内会館前にある。幕末のころ本堂で寺子屋が開かれた。それが明治五年(1872)の学制で学舎となった。 正しくは第一大学区第十中学区第五十八号公立小学公郷学舎、今の豊島小学校の前身だ。 やがて公郷トンネルに通じる道路を横切り、春日(かすが)神社へ。その昔、公郷は藤原氏の荘園のため奈良の春日大社から分霊を勧請された、と伝えられる。 古くは猿島に鎮座、周囲の九つの小島をあわせ十島のため、十島大明神とも呼ばれ公郷全体の鎮守だった。 ここから猿島へ向かって朝夕礼拝。猿島が軍用地となったので明治十七年、現在地に社殿が造営された。  浦賀道は、久里浜方面へ通じる国道134号を横切る。大津町一丁目だ。
原本記載写真
「弓形を為(な)せる長汀曲浦は大津に連なり走水に達し・・・」といわれた美しい海岸緑は、 埋め立てでー変した。写真は、浦賀道沿い、横須賀市三春町 1 丁目の浄蓮寺。ここの寺小屋が豊島小学校の前身だった。

浦賀道を行く L 『早馬が走った道』
原文

横須賀市大津町には旧道がニつある。五丁目の天神坂の坂道と、一丁目の大津郵便局前の道だ。 天神坂は平作川流域の鎌倉道に通じる。五丁目町内会館裏には、江戸時代から大正年代まで立派な天神様があった。 境内のこま犬や、みたらし(御手洗)は今、町内会館に残る。明治十三年(1880)には菅原道真生誕千年祭が行われ、 その時の記念碑は、四丁目の諏訪神社境内に建つ。京急大津駅に近い大津郵便局前が浦賀道だ。 この地域では砂坂ー曲り矢ー竹沢ー矢の津を経て浦賀へ向かう。幕末、黒船来航を江戸へ知らせる早馬が走った道でもある。 今の県立横須賀大津高校をはじめ大津中学校、大津運動公園一帯は、天保十四年(1843)に川越藩主、松平大和守 斉典によって大津陣屋が設けられた所。水田埋め立てには信楽(ぎょう)寺入り口の山を切り取つた、という。 陣屋の「絵図」では、表門中央に御殿があり、回りに役所、長屋、馬屋、馬場。千五百人は詰めていた、とか。 陣屋の名残は今、大津中学校正門内の右隅に残る。説明板にはこうある。
「 大津陣屋石橋
  この石橋はもと横須賀刑務所正門前官舎の傍らに有ったもので、
  旧大津陣屋構内に掛けられていた遺構のひとつです。
  大津陣屋は天保十四年に沿岸防備のため築造されたもので
  川越、熊谷、佐倉などの諸藩が代々詰めていました。
  慶応三年、浦賀奉行の管轄となりましたが、
  明治元年に陣屋は廃止されました。
 現在、陣屋を物語る遺物として、
  この地に残された唯一のもので、貴重な郷土の文化財といえます。
    昭和五十四年十一月
             横須賀市教育委員会」

陣屋があった当時、出入りしたと思われる屋号が今なお残る。たとえば、とうふや、 かしや、しょうゆや、あぶらや、たねや、おけや、かじや、きょうじや、いかけや、かご屋、などである。
原本記載写真
横須賀市大津町は、大津陣屋に出入りしたと思われる商人や、職人の家の屋号が残る。写真は、大津中学校正門内の右すみに保存されている 陣屋の石橋。陣屋を物語る遺物としては、唯一のもの

浦賀道を行く M 『くまなく走る枝道』
原文

大津地域の小道は浦賀道の枝道だった。いわば、この道路網を「大津郷土誌」(昭和五十六年刊)では、 こう説明している。浦賀道を軸として、曲り矢ー稲荷神社(京急大津駅の所)ー大津小学校ー諏訪神社を経て、 @陀羅ケ谷から池田へ(吉井、佐原に行く) Aかど店(蛇沼、大津町四の五三)から射的場(運動公園)を横切り保込へ(天神坂から公郷、三春町に) Bかど店から根岸へ(公郷町の妙真寺に) Cかど店を経て井田へ(森崎、八幡久里浜に)が、おもな小道だった。 ほかに「下の道」とも呼んだ浦賀道に平行して稲荷神社から矢の津坂下へ抜ける「上の道」があった。 かつては、いずれも砂利道で、ほこりっぽく道幅が狭かった。 これらの道路のわきを行くと山すその道となる。お寺や神社は、山すその道に沿い石段を登る。 鎮守の諏訪神社をはじめ信誠(じょう)寺、信楽(ぎょう)寺、貞昌寺、浄林寺はもちろん、合祀(し) されて姿を消した根岸の千片神社、保込の天満宮、西竹沢の権現様、矢の津の羽黒社、馬堀の白山社も石段の上にあつた。 山すその道は、里人にとって暮しのすべてを行き来させた。  幕末、画家の安藤広重は「大津」を描いた。画面には、砂浜にまばらな松の木、漁師の家も何軒か。 砂浜の右はじに「陣屋」とあるのは大津陣屋のこと。中央やや左寄りに猿島が浮ぶ。 このあと広重は矢の津坂の上からだろうか、「浦賀近辺、山中の月」の名作を残した。 矢の津坂を越えれば、もう浦賀の芝生(しぼう)、今の京急浦賀駅前である。  浦賀道を歩いた。定かではない個所は、旧道に詳しい先輩や土地のお年寄りにわき道を教わつた。 道のり十五、六`。これを迫浜から逸見まで、逸見から安浦まで、安浦から浦賀の三つに分けて、 ゆっくりと散策なさったら・・。それぞれ京急の駅から駅までだから便利だ
原本記載写真
横須賀市大津地域には、浦賀道の枝道が多い。写真は、大津町4ノ53、かつての字(あざ)蛇沼で、枝道が三万に分かれた地点だった。 国道134号線沿いで、大津児童公園の向かい側

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